手に付かない言葉たち
頭に浮かぶ実態のない言葉たちは、文字に表すことで視認することができるようになる。けれどもう浮かんでくる映像を他人に伝えるときは、そのままに書く記せばよいという訳にはいかない。目に映る映像を一枚の絵としてとらえて、左うえから順に一コマずつ状況をかいせつするように、言葉にしてそのままに並べることができるならそれでも構わないだろうが、あらゆるものが飛び交う映像を想像したとき、空中に浮かぶものをひとつずつ説明するなんて退屈なだけだ。より効果的に現象をあらわして、かわりゆくイメージのあらしを伝えねばならない。それが難しいならばそれほどスピード感にあふれる映像を無理に説明することはない。もしくは、言葉でこそ表現しうるその速さをそのまま文字として置き換えることもできる。しかしいまのわたしに的確かつ上手な表現などできるはずもない。なぜならば経験値が低いからだ。だいたい、何をうかべても文字に表す前に消えてしまう。あたまが混乱してきた。打ち込んでいる言葉の数々も脈絡のないものになっていないか不安だ。そしてこの変換、作業を定期的に遮ってくれる。アイデアは鮮度なんだ。生きている。そして死にゆくのも早い。イメージが浮かび、すぐに文字にできなければ、それは次に浮かんだイメージを表現できずに消えてしまう。いま頭に浮かんでいるのは映画のこと。スクリーンに映る映画。そしてメディア化され、販売されている作品たち。トランスフォーマーシリーズ。もう一度細かい部分まで見てみたい。スクリーンの背景に当たる部分のほとんどがいまやCG化されており、どこからが本物で、どこからが映像なのかがわからない。だからその細部をみてみたい。どれほどよく見つめても、そんな作業は映画制作スタッフが上映前に100回も200回も行っていることだ。たった一度しかみない観客のために何度も試写をする。飽きるほどに。それで完成した作品が世間に見せびらかされ、くずだ、ゴミだと叩かれる。評価する側は自由でいいことだ。こんなことを書きに来たんじゃない。物語の骨組みがだいたい出来上がってきたところで、またいま困った状況に鳴っている
この変換本当に鬱陶しい「なっている」が「鳴っている」に勝手に変わる。許せない。
困った状況に陥っている。と書くべきだった。会話が思いつかない。人とコミュニケーションをとらずに過ごす時間がながかったせいか、もしくは意識してひとと会話したことがなかったからか。生きている言葉が出てこない。
頭の中で聞いたことのあるキャラクターの声で脳内再生される会話はたくさんあるが、そのすべてを文字にして記録することが困難な状況だ。
自分の声を録音して、あとから聞きながら文字として起こすことも考えたが、それではうまくいく気がしなくてまだ試していない。
やってもいないのにとは思う。試して見る勝ちはある。けれど問題は、データの管理と、文字を起こす作業のことだ。きっとすごく疲れる。思っている以上にだ。次に、どうせ聞いた音声よりも違うものを求めるようになる。それはとてもいいことだけど、手直しに手直しを加えて収集のつかなくなることをできれば避けたい。
言葉を書くのは一言ずつだが、出てくる言葉は常に1つとは限らない。突然溢れ出すように10も20も出てくることもあれば、枯井戸のようにすっからかんになってしまうこともある。いまはふたつのことが僕の考えを邪魔している。1つ目は今朝公開されたばかりの映画「シュガー・ラッシュオンライン」に出てきた可愛い可愛いディズニープリンセスたち。あんなに愛くるしい生き物が実在してしまったら。世の中大パニックだろう。みんな美人すぎる。僕のお気に入りは人魚姫のアリエル。彼女は泡になって消えたりしない。足もきれいだし。もらいものの足だけど。エージェント・オブ・シールドに登場するデスロックみたいだね。
そしてもう一つは枯井戸と打ったときにでてきた「カレイド」
カレイドスコープといえば万華鏡のことである。べつに万華鏡には興味がわかないけど、カレイドスコープという楽曲については興味が湧いてしまった。音楽だ。僕のお気に入りの女性歌手、みのりんによるアップテンポな楽曲だ。無性に聞きたくなってしまう。彼女は「毎日が自由自在」と歌い上げる。ほんとうにそうだといいんだけれど。
自由自在には操れないことのほうが多いよ。
「せめてこの体くらい、自由に動かせたなら。もっと人生は楽しいのに」
五体満足な人間が言ったら、贅沢な話に聞こえるだろうな。
けれど、足をうしなったデスロックさんに言わせれば、もっと重い言葉になるだろうに。わたしの唯一気に入っているラッパーの呂布カルマ氏の言葉を借りるなら、こうして「言葉のウェイト」を考えているのはちょっと楽しい。
昨日、仕事終わりの母親を駅まで車で迎えに行ったときの帰り道、いまいましいラジオで流れていた曲にこんなのがあった。
RADWIMPS「パパラッチ」
内容は・・・一言では言えないし、わたしはRADWIMPSさんのファンでもアンチでもないから、下手な評価はしないようにしたい。自分を守るためさ。
この曲は本当によくできている。作った人は頭がいいんだと思う。ほめてもバカにしているようにみえるからこれ以上褒めない。
ラップ調で語りかけるように歌うこの曲はほんとにうまくできており。誰が聞いても「あーあ、すごいこと言ってるな」と思うだろう。聞けばわかる、悪者に対するの論破のあらし。自分は一切悪いことをしていないのに、全く無関係の僕ですら耳をふさぎたくなるような言葉ばかり、なにかやましいことでもあるのかねわたし。
あまりにうまく出来すぎていて気持ち悪かった。ひとを気持ち悪くさせるくらいにはうますぎて、わたしはあまり好きでなかった。評価は高い。高く評価するからこそ。わたしはこの曲が好きになれなかった。
いるだろう、美人とは認めるけどタイプじゃない。
そんなもんだ。
まず、音楽とは認めるが、わたしに言わせればこれはラップじゃない。わたしはラップのことなんてミリも詳しくないが、わたしの好きなラップはもっと、粗い。
荒っぽいのではない。きれいに美しく言葉がはまりすぎている作り物であるラップが好きになれないだけである。たんなる趣味嗜好の問題だ。本物のラップ好きはわたしのような偽物の言葉を気にすることなんてない。君たちのほうがよっぽどラップについては理解しているし正当な評価ができるだろう。わたしはたった一度しか聞いていないし、運転しながらだった、真剣にも聞いていなかった。
運転せずに真剣に聞いていたら、おそらく冒頭の10秒くらいでラジオを止めていただろうが。きれいにはまるように言葉をつなげた内容であるにもかかわらず、ここで呂布カルマさんの言葉をもう一度借りよう。言葉尻がだっせえ韻を踏んでばっかりなのも残念だった。楽曲として収めるからには完成していないと行けないとは思うが、ラップとはつねに完成しているようなものでもない。エミネムさんのラップは日本語でないので、ほんとうはなんて言っているかわからないから音楽として好きだ。しかし、RADWIMPSさんのパパラッチは、あれは歌じゃないし、ラップでもない。ファンの皆さんごめんなさい。
何度も言うが、人気者である彼らへのたんなる妬みでしかないこのアンチもどきの言葉なんて気にすることはない。
手探りしても手応えがない
こんな経験はないだろうか。
リュックの中にお財布が入っている。
わたしはそれを知っているから、手探りで見つけようとする。
リュックの口を少しだけ開けて右手を突っ込む。右へ左へ手を動かし、中にある財布を探す。革製の財布は手に当たればすぐにわかる。けれどもなかなか手に当たらない。
リュックの中には他にもマフラーとか、暑くなって脱いだ上着が入っている。
わたしは荷物が少ないほうだ。お財布を一つ持って行くだけでも、小さいカバンを探すのが面倒だからといって、財布を持ち運ぶのには大きすぎることなど考えずに、手近にあるリュックを選ぶ。財布が入れば何でも良いのだ。
だからリュックの中の財布を探すなんてたやすいこと。目で見なくてもすぐに見つかるさと、たかをくくって腕を突っ込んだ。
しかし、5秒、10秒とリュックの中をかき回しても財布は見つからない。
まさか入っていないなんてことはないだろう。不安になりながらも、確かに入れたのだと言い聞かせてより一層腕をぐんぐん押し込む。
けれどやはり手に当たるのは母に誕生日プレゼントでもらったマフラーの柔らかいカシミアの感触。
あきらめてリュックをおろし、中身を取り出す。もしや本当に入っていなかったらどうしよう。そう思いながらさきほど無理やり押し込めたばかりの上着を取り出すと、リュックのそこには確かにわたしの財布は入っていた。
なんてことはない、ただ手探りで見つけられなかっただけ。
まさかリュックの中の時空が歪んで、たった15秒間だけわたしの財布がこの世界から失われていたというわけはない。
単純なことなのだ。あんなに念入りにリュックのそこも探したのに、そのときにはなかった。まったく、一切触れなかったのだ。
けれども目で見てみると、財布はそこにある。
納得がいかないよ。
手探りで見つからないときは、鞄の中のものをすべて取り出して、目で見て確かめればいい。そうすれば、本当に入っていないのか、探し方が悪かったのが一目瞭然だ。
では、形のないものを扱うときはどうすればいい。
例えば頭の中にある構想を探っているときは。
迷うことがある。あれでいいのかこれでいいのか
けれども、なに、迷うことなんてないさ。
迷ったなら迷ったなりに、そのままの言葉で文字にして見える化すればよい。
何がわからなくて困っているのか。
想像上のものであれば、思ったとおり書いてみるといい。
さて、君は今何に困っているんだ。
想像を形にする「クリスタ」
2012年に公開されたパソコンのフリーゲーム「Ib」をご存知だろうか。
ある日、主人公のイヴは両親とともに美術館で開催された「ゲルテナ展」にやってくる。イヴはひとりでゲルテナの作品を見て回っていた。そして一枚の大きな絵に見入ってしまう。気がつくと美術館から人がいなくなり、両親ともはぐれ、外に出ることもできなくなってしまう。
絵に描かれた猫は鳴き声を上げ。額縁から赤い絵の具が滴っていた。まるで人間の血のように。そうしてゲルテナの作品たちはイヴを絵の世界へいざなうのであった。
不思議な世界へ入り込んでしまったイヴは、ひとり心細くさまよう。首のないマネキンに襲われ、額から上半身がはみだした狂気の女に追いかけられた。
命からがら逃げおおせたイヴの前にギャリーと名乗る人物が現れる。彼もまたゲルテナ展を見に来た客の一人だった。彼の助けを借りながら二人は出口を探す。
ネットの動画サイトでも非常に話題となり、2014年頃にフリーゲームを遊んでいた人ならば知らない人はほとんどいないだろう。
ホラー脱出アドベンチャーゲームとして高い評価を集めている。
何を隠そうわたしもこの作品のファンである。
世界観は神秘的で、たいへん怖い。
芸術作品の持つただならぬ雰囲気や、狂気じみた印象をうまく調和させて、プレイヤーの不安をあおる。
マップや謎解きの難易度もほどほどに、びっくりさせてくる仕掛けが普通に怖い。
プレイ動画を見ているだけではなかなか伝わらないが、やってみるとこれが意外にしてやられる。
お話もきれいにまとめられており、マルチエンディング方式を取っているが、バッドエンドもハッピーエンドも納得がいく仕上がりとなっている。上から目線に何を言っているかと思う方がいたならば、その方の感覚は正しい。こんなつたない文章のレビューなんかじゃ「Ib」の世界観のすべてをきれいに伝えることなどできていないからだ。
物語が進むに連れて、ゲルテナの作品に隠された秘密が二人を幾度も惑わせるわけだが、詳細はネタバレになるので割愛する。
気になる方がいればぜひ一度プレイしてみるといい。イヴが絵の中に入り込むまでの冒頭の15分だけでも、なかなかおもしろいはずだ。
ホラー要素はもちろん含まれているが、ガラスが割れたり、マネキンが襲ってくる声が多少脅かしてくる程度である。画面いっぱいにおっかない画像がどんと表示されたりはしない。
ゲーム性としても、触れたら即死のオワタ式鬼畜ゲーではなく、個別に体力が設定されており。そうなんどもなんどもゲームオーバーを繰り返すようなものでもない。ほどよい緊張感とスリルやパズル要素がプレイヤーの好奇心を掻き立てる。
さて、イヴの話はこのくらいにしておこう。
なにについて書こうとしたか話そう。
今日は物語を考えようと思う。
ゲルテナは自分の作った世界に年端もいかぬ可愛らしい少女を誘拐したのだ。
芸術家ならなにをやっても許されると言うのか。ならばわたしも今日から芸術家を目指そうではないか。毎日かわいらしい女の子を作品の中に閉じ込めては、恐怖におののく姿を見て楽しもうではないか。
というわけで、イヴに感銘を受けたわたしは似たような作品を思いついた。
内容はこうだ。
少女は目覚める。
真っ先に主人公として16歳の女の子を選んでみた。理由はもちろん、可愛いからだ。
この愛くるしき少女、名前は「クリスタ」という。
クリスタが目覚めるとことからお話がスタートする。
よくあるだろう、深夜アニメの劇場版の主人公が、やかましい目覚まし時計のアラームとともに目を覚まし、映画のスクリーン上にはスタッフクレジットが表示されていくさまをわたしはよく知っている。
クリスタは目覚めると。そこは真っ暗なのだ。暗いとはどういうことか。文字通り、何も見えないのだ。目を開けている感覚はあるが、何も見えない。暗闇に目がなれてくると天井らしきものが見え、壁が見え。そこがちいさな部屋の中であることがわかる。
クリスタは人間だから体に神経が通っている。自分が横たわっているのが床なのか、はたまたふかふかのベッドなのかは目で見て確認するまでもなく理解できている。答えは前者。木の板間にぶっ倒れている状態である。そして首が多少痛む。ここにクリスタを寝かせたやつはろくに枕も用意してくれなかったのだろうか。せっかくきれいな彼女のブロンドの髪の毛がほこりだらけの床にさらされて傷んでしまうではないか。けしからん。
彼女は目を凝らしてあたりの様子を見回した。自分の左側にはすぐ近くに壁があり、右側の、手の届かない辺りには木箱のようなものが見えた。
先に言ってしまえば、ここはクリスタの父の作業部屋なのだ。父の作業部屋はクリスタの実家の2Fにあり、出入り口は部屋の南側に面した西の隅にある。作業台は扉から最も離れており北東の隅に寄せてある。そしてその作業台に向かって座った正面に窓があり。父はいつも窓を開けて採光していた。
そしてクリスタが横たわっているのが南東のすみ。ここはクローゼットだ。ウォークインクローゼット。クリスタを横たえるために。広めの置き場としてそういう設定にした。
物置とも言っていい。なぜなら父はクローゼットに仕事の道具をこれでもかと詰め込んでいるから。広めのクローゼットも画家の父である彼の仕事用品でいっぱいになっていた。
クリスタが最初に目にする木箱には大量の布切れが入っている。真っ赤に染まった大量のね。いやいや血ではないよ、絵の具さ。わかるよね。
クリスタは一時的な記憶喪失。ではないが、それに近い状態になっている。ここがどこなのかがわからない。それもしかたない。父の部屋に大変似た構造をしているし、置いてある物も父の使っていたものに酷似しているが、それがほんとうに父の所有品とはとても思えないほどに汚れている。一番に違いはこの部屋には窓がないことだ。壁には無数の絵、額に収められて飾られている。大小の絵の数もさることながら、クリスタが驚いたのは、その額の上から大胆にもペンキを直接塗りつけるようにして描かれた絵があることである。壁が一枚のキャンバスになり、大きく何かが描かれているのだ。足の生えた目玉のような。スカートを履いた犬のような絵。わけがわからない。絵は青く光る黒い絵の具で描かれていた。
作業台には、炭や絵の具、パステル、筆が散らばり、ばらばらになったイーゼルの残骸が積み上げられ、天井にまで届いている。ところどころで骨組みが「僕はクリスマスツリーです。どうぞ飾り付けてください」と言わんばかりに飛び出しており、その一本ずつに絵の抜けた額が引っ掛けられていた。たいへん悪趣味である。
イーゼルや額の残骸は天井にめり込んでおり、むしろ天井から直接生えてきているのではないかと錯覚するほどであった。作業台の下には乾いた血溜まりがあり、その中心には小動物の白骨化死体が横たえられ、頭蓋骨からは牛かキリンの長い舌のような、ぬらぬらとしたものが生えた模型が置かれている。血溜まりの円の外側には3センチ角ほどの四角い板が一筋の鎖状に連なり、その途中途中に人の形をした積み木が置かれていた。木の板を一枚だけめくるとそこには28と書かれていた。
作業台の下に配置するものはネズミの死体でも良かったが、異常さを出すためにありえないものを配置したかった。連なっているのはボードゲーム海底探検のコマ。
ここまで話せば多少理解していただけると思うが、クリスタの目覚める部屋は父の部屋ではない。もう一つの架空の空間だ。だからその部屋は似て非なるもの。
なにかのアクシデントでクリスタはここ、つまり亜空間に入り込んでしまうわけだ。
入り込む理由も簡単に書いておこう。
クリスタは超能力者だ。
フィクションなのだから許してほしい。彼女は絵の中に入り込むことができる。
それだけではない、絵の中にいる者たちと会話ができる。その絵が精巧に描かれていれば、彼女は絵の世界を深く深くへと入り込めるわけだ。
モナリザとはマブダチという設定も付け加えるとしようか。いや、やめておこう。
ある日クリスタがモナリザ展に足を運んで、彼女の絵の中に飛び込んで、彼女にこう語りかける。
「リザ、最近どう?」
「そろそろ肩が凝ってきたわ。みんなと目を合わせるのも疲れちゃった」
「組んでる腕を逆にしてみるのはどう?みんな気がつくかしら」
「嫌よ、そんなの」
「どうして?」
「そんなことしたら贋作だって燃やされちゃうもの」
クリスタが絵の中に入ることと、絵の中の者たちと会話できる力は、ある目的のために備わっている。キーワードは「家族」後述する。
この能力をクリスタ本人が認識するのはこの事件が終わってからとなる。つまりクリスタ本人にしてみればはじめての体験。自分に何が起こったのかがわからない。読者諸君にもはじめにその設定を伝える気はないから安心してほしい。
展開としてはこうだ。
クリスタ目覚める。さまよう。謎を解く。脱出を試みる。目的に気がつく。エンド。
この物語の最終目的は絵の中からの脱出ではない。物語の展開として、小さな目的を次々にこなしていき、大きい目標を達した後に、裏ボス的な感覚でもう一回楽しみがあってもいいじゃないだろうか。わたしはそういうのが好きだ。
この作品を仕上げるに当たり、たいへんな作業がある。
物語の構成。世界観の構築。キャラ付け。謎づくり。展開。やることは無数にある。
頭の中で出来上がっているのはおおまかな流れとそれを盛り上げる一部のキャラクターのざっくりとした設定。
クリスタが歩く廊下の装飾なんかもいちいち考えないと、リアリティにかけてしまう。けれどもわたしにそんな美的センスはないし。そんなことをやっていては時間がどれだけあっても足りない。ならばどうするか。
先生たちの力を借りるほかないでしょう。真似をする。パクる。
まるまるそのままを世界観に投入するわけではない。飾りの中に丸をつかうか三角をつかうか迷ったときに参考にする程度だ。
もっと言ってしまえば、はじめに話したとおり、この作品(仮名をクリスタ)は「Ib」に感銘を受けてわたしが想像したものだ。
似てしまうのはしかたない。そしてわたしが作ろうとしているのは、文章としての作品。「Ib」はゲーム。受け取り方も人によって大きく違ってくる。
そこをうまく利用しようと思う。
文字での作品は読者により世界観の想像をされる。わたしがなにもかもを設定し、建物の色やなにからなにまでを決めるのではない。
クリスタの目覚める部屋の床の色をわたしは茶色と思っている。けれども、中にはグレーだと思う人も、焦げ茶だと思う人もいるだろう。汚れているし、血が滴っているなら赤も含まれるかもしれない。別段その部分をわたしが決めようとは思わない。
わたしが「木の板間」と書いたことで、その木が何色かは特に重要ではない。
そこに例えば「白木の板間」と書けば、多少印象は変わってくるだろうし、「大量のペンキで薄汚れた木の床」と書けば、そのペンキが劣化して剥がれた細かいかけらが、クリスタの髪の毛に絡んでいてもおかしくないのだ。
そういうディティールの話を切り詰めて行くことで読者の心をつかみたいと思っている。
髪にホコリが付いたことがわかれば、取り払いたくなるだろうが、クリスタは鏡を見ていないからそれにも気が付かない。たとえ顔が血まみれになっていたとしてもクリスタはガラスに映る自分の顔を見るまで気が付かないのだ。
いいことを思いついたので、このアイデアを取り入れることにする。
途中でクリスタは鏡を覗く、そこで自分の頬やおでこに血しぶきが付いていることに気が付き驚く。本当はただの絵の具なのだが。
そしてその顔を見た絵の中の住民は「ひっでえ顔してんなおまえ」と声を掛ける。
クリスタは恐怖のあまり表情がこわばっているから、そういう意味だと捉える。
しかし彼の言う「ひどい」は「きれいな顔が汚れている、台なしだ」という意味。
このような言葉の錯誤や、主観では気づきにくいことをあとから指摘されることで、自分の状況を少しずつ理解していく姿を描ければと考えている。
ここまで書いて話がだいぶそれてしまったが、続きを記していこうと思う。
さきほど父のクローゼットのなかには仕事の道具が詰まっていると話したが、具体的には何が入っているだろうか。本当の父の部屋のクローゼットには当然衣服も入っている。父の誕生日にクリスタがプレゼントした立派なコート。何色だろうか。わたしはこれを黒にした。緑もいいかと思ったが、緑は別のコートの色だ。クリスタの父が妻からプレゼントされたボロボロのコート。こっちがダークグリーン。このコートはクリスタの命を守る役目を果たしてもらおう。
クリスタは絵の中で幾度となく、危険にさられる。そのたびに父の持ち物に救われることになる。
はじめは作業台の燭台。持ち運びはできないが。この燭台に立てられたろうそくに火がつくことでクリスタは最初に視界を得ることができる。
この火は自然に灯る。勝手にだ。火が付いて部屋が安全だと確認できてから、クリスタは動くことができるようになる。その部屋にはおおよそ安全には思えない狂気の作品が無数にあるから、当のクリスタは部屋からとっとと逃げ出したいと思うわけだが。
続いて、部屋を出るとクリスタはまた暗い廊下を一人で歩くことになる。部屋から漏れる僅かな明かりを頼りに暗い廊下を進まなければならない。
部屋を出ると右側が行き止まりになっている。廊下のつきあたりにこの部屋は存在していることになる。行き止まりの壁には、クリスタの胸から上の高さに縦長のガラスが貼ってあった。縦に長く伸びたガラスは上の端が見えなかった。とても高いところまで伸びているのかはわからないが、天井も暗くて見えない。そとから明かりが入ってきているはずなのに、その光で室内を目視できないとなると、外は夜であるかもしれないとクリスタは思う。その窓には内側から当て木がされている。乱雑に打ち付けられた分厚い木の板。手近な板を掴んで、力いっぱい揺さぶってみるがびくともしない。釘で打ち込んであるはずなのに、まるで壁と溶接でもされているかのようで、少しも傾かなかった。
クリスタは当て木の隙間から、外の様子を覗こうと背伸びをした。しかし窓ガラスは曇っているのかくすんでいるのか。向こう側がほとんど見えなかった。指で窓をこすろうと隙間に指を入れようとしたが入らなかった。怪我をしないうちに指を離した。あきらめて外の音を聞くことにした。ぱらぱらと窓を叩く雨の音が聞こえるような気がした。気のせいかもしれないが、外では雨が降っていると思うだけでクリスタの気持ちは少し落ち着いた。
クリスタは閉鎖された空間からなんとか脱しようと試みる。けれどもなんともならない。窓から抜けられると考えるのは当然の思考ではないかと思う。クリスタもできることなら窓を叩き割って外の空気を一刻も早く吸いたいと願っている状態である。
第一ここはどこかもわからないし、ここが安全である保証は今の所どこにもないのだから。
さて、ここまでがクリスタが目覚めて部屋を抜けた先にある、1つ目の試みをクリスタが諦めるまでの描写だ。読者の思惑通り、そう簡単に脱出できるはずもない。
というか、ここまででは読者はクリスタがどんな状況下にあるのか、脱出をしなければいけないところなのかも実はよくわからないだろう。
クリスタが目覚めたあと、前述の通り作業台の上のロウソクが灯り。クリスタがからだを起こし、部屋の様子が描かれ、ただならぬ雰囲気に危険を感じたクリスタが部屋を飛び出す。これしか情報がないのだ。ここを出なければならない理由をもう少し加えていく必要がある。
この時点では脱出よりも、状況の把握に専念すべきであると思えば、まだクリスタに焦って先走ってもらっては困るわけだ。まずはここはどこ、ここはどこ、とさまよってもらわねばなるまい。そのうえで、危ないかもしれない。という危機を徐々に認識していただくように仕向けようか。
理解し難いものを見れば不安な気持ちにもなる。そういう意味で、乾いた血溜まりの白骨死体や、天井まで伸びているイーゼルの残骸や、壁にでかでかと描かれた謎の絵や、ひとりでに灯るロウソクはクリスタの心を十分に不安にさせるだろう。
ちなみにロウソクが灯った理由を明確に定義した。
ロウソクは「ノーム」が灯したものである。後述
クリスタがさまよう世界は紛れもなく絵の中の世界であり、そこにはクリスタ以外の住人が存在する。その住人の中には、女王と呼ばれている偉い人(絵)がいる。その女王が支配している絵の世界には、絵の中の使用人がいる。使用人の名はシンディ。汚れを掃除する役目を果たしている。絵の世界の中で、汚れているものを彼女の持つ雑巾で拭き取ることで消してしまう。
そしてシンディのお手伝いをしてくれる小さな働き者「ノーム」
ベル状の胴体にまるい頭部に大きな目、三角帽子をかぶっており、非常に愛くるしい見た目をしている。機嫌が良いとからだを鳴らしてニコニコ笑う。絵の中の世界では唯一姿を自在に消したり現したりできる。空間同士の出入りも自由。女王や他の住人の入ることのない部屋にも入り込める。そして人の気持ちを察知して助けようとする。クリスタの味方だ。クリスタが目覚めたとき、一匹のノームが部屋に入り込み、クリスタの明かりが欲しいという願いを叶えたのである。直後にクリスタが体を起こして驚いたノームは姿を隠してしまう。クリスタにくっついてちょくちょく助ける。
談話室の「紳士」からこの空間の説明を受けるまではノームは姿を見せない。
クリスタがはじめに目覚めた部屋は絵の中の世界でも、誰もが自由に出入りできない秘密の部屋である。「扉」が閉ざしていた「廊下」の突き当りにある。この「扉」は後述するが女王のしもべであり、絵の世界の空間同士をつなぐ役目を果たしている。絵はそれぞれ独立した額の中に収められているが、扉のちからで空間をつなげている。扉は女王の命令に従っている。シンディも女王の命令に従っている。ただ両者とも女王に対し忠実ではない。命令を受けるから行動するだけである。命令するものが他にいないから、女王に従っているのである。つまりクリスタが命令すれば・・・。
扉もシンディも自分の意志で行動することがある。
扉は秘密の部屋を秘密にするし、シンディは汚れを見つけたらそれを取り除こうとする。逃げるものは追いかける。そのときのシンディの顔は、黒目がなくなり、たいへんおっかない。
秘密の部屋は誰にとっての秘密かといえば、女王に対しての秘密の部屋である。
この部屋が何かと言えば、父の部屋である。クリスタの父は画家。
つまりは絵の世界の創造主。彼の部屋から全ては生まれ、絵の世界は構築された。扉もシンディも、ノームもクリスタの父が描いたもの。その中でも女王と名乗る女は、"よくできた作品"なのである。父が描いた絵の中でもそれはそれは精巧に描かれてしまったもので、他の絵よりも力が強く、支配欲があり、女王などと名乗るようになった。その実は父の古い恋人。妻の前に親交していた女性をクリスタの父は絵にしてしまった。
父は無意識だった。誰と意識するわけでなく女性の絵を描いた。それが父の潜在意識で過去の記憶と結び付けられ、そして歪んだ記憶のまま精巧に描かれてしまった、いわば悪しき作品である。歪んだというのは、父の悲しい失恋の過去。失ったものを取り戻せない、失敗した過去。そういう負の感情が込められてしまい。出来上がった作品が女王。
女王も所詮はただの絵。目的は自分を満たすこと。父の満たされなかった気持ちが反映されてしまっており、ぽっかり空いた穴を埋めるべく、女王は愛を求めている。
父の愛情を強く受けて育ったクリスタに対して過剰に反応してしまう。
絵の女王は大切にされたいと願っているだけ、愛されたい、愛してほしい。その一心でしかない。愛を手に入れるために他者を支配し、操り自らの力に変えて、敵視するものを滅ぼそうとする。
扉は作品同士のつながりを象徴する作品ではあるが。その扉の中に父の記憶の一部を隠してある。危険のある存在から、父の部屋を守るために、扉は部屋をひた隠しにする。扉の作品名は「秘密の裏」
父の隠している秘密とは、クリスタの力のこと「絵に入り込む力」これはたいへん恐ろしい力であるとクリスタの父は考えた。
どういうことか、単純である。
「クリスタは自由に絵を出入りできる」が「その方法を理解していない」のである。
はじめてクリスタが絵の中に入ったのは、まだハイハイもままならない赤ん坊の頃。クリスタが生まれてすぐに母親を失った。病気だった。クリスタを産むことで息絶えてしまった。
こんな設定にしておくのは特に問題ないだろう。重要なのはクリスタには家族が父親一人しかいないということと。クリスタの父にとっても家族はクリスタたった一人なのである。
クリスタが生まれる以前に、妻の絵を描いた。クリスタの母は自分の命が間もなく絶えてしまうことを自ら悟っていた。
そこで愛する夫に、「生まれてくる子を、母と巡り合わせてあげて」と頼んだそうだ。
クリスタの父は妻の言っている意味がわからなかった。絵を描くことは了承したが、会わせることができないかもしれないなんて。まるで死の宣告を受けているようで、クリスタの父は困惑した。けれども、妻の意志は固かった。わたしの絵を描いてほしいという妻の願いをクリスタの父は受け入れた。
父はクリスタの母の絵を完成させた。生前の姿をありのままに描いた作品だった。
そして、絵が完成したその日。クリスタは生まれ。妻はこの世を去った。
父は嘆き悲しんだ。絵が完成したことも伝えられぬままに彼女は逝ってしまったのである。絵を完成させるという約束を果たしたことも、伝えられないままでいた。
時が経ち、クリスタの父は妻の絵をクリスタの眠るベッドの近くに飾ることにした。絵のもとですやすやと眠る我が子の姿にクリスタの父は心を癒やされた。
「これでよかっただろうか」妻の絵に語りかける。
翌朝、クリスタは姿を消していた。
クリスタは赤ん坊の頃に一度、絵の世界に姿を消している。
父は警察に相談し、クリスタの捜索を依頼した。けれども依然として見つからない。
クリスタの父は落胆した。「これ以上、僕の家族を奪わないでくれ」
妻に続いて、愛する我が子も失ってしまった父は死をも考えた。生きている意味などない。そう思ってふと、妻の絵を見上げると、そこには妻の腕に抱えられたクリスタの姿があった。妻は自分の腕の中で安らかに眠る我が子を抱いて、優しく微笑んでいた。
そして父は気を失った。
気がつくとベッドに眠るクリスタの姿ともとに戻った妻の絵。クリスタは帰ってきた。
クリスタの父はまるで理解できなかったが、そしてあることを思い出した。
二人(仮名マルコとリーセ)が出会った頃。リーセは芸術には興味がないとよく話す女性だった。マルコが理由を尋ねるとリーセはこう答えた。
「絵の中の人たちってみーんなひねくれ者なんだもん」
マルコは言葉の意味がわからなかった。
「けど、あなたの描く絵は好き。とっても神秘的。こういう世界にならわたしも入り込んでみたいかな」
ただの比喩だと思っていた。リーセはわたしの絵の中に入ってみたいとよく言っていた。絵が好きだという気持ちを遠回しに表現しているのだとばかり思っていた。
けれど実際は違った。
「最後の晩餐の食事って全然美味しくないんだよ」とか「接吻って女の人可哀想だよね。わざわざあんな崖でしなくてもいいのに。彼女怖がってるよ」とか言っていた。
芸術が好きじゃないというから、他人の作品をこき下ろしているだけに見えていた。彼女は実は本当に絵の中に入り込んでいたのかもしれないと思うようになった。
設定上の事実として、クリスタの母リーセは絵の中に入り込むことができた。そして彼女の力は娘のクリスタに受け継がれた。彼女はマルコの絵の力にも気がついていた。マルコの描く作品には、芸術としてだけでなく、独特の世界観に命を吹き込むこともできると確信していた。リーセは自分の命が消えるとわかったそのときに、マルコに絵を描かせ、完成と同時に絵の中に入り込み。クリスタの待つ我が家へ旅立ったのだ。そしてクリスタが姿を消したその日。ついに自分の絵にたどり着き。我が子をその腕に抱きしめることができた。
クリスタは知らず知らずのうちに母に抱かれ、再会を果たしていた。しかしクリスタ自身は母に会った記憶はない。
リーセはクリスタが絵の中に入り込む力があることも知っていたし、マルコが絵の中に命を吹き込むことができることも知っていた。そしてもう一つ。絵の中に入りこむことは容易でも、抜け出すことは困難で場合があることも知っていた。
ましてやそれがマルコの作品ともなれば、一生上の中から出てこられなくなる可能性が高いこともわかっていた。だからクリスタにはその力を悟られたくなかったし、マルコにも打ち明けることはなかった。クリスタが絵の中に来てしまうと、マルコは一人ぼっちになってしまうからだ。
絵の中から二人を見守ることがリーセの最後の願いだった。マルコはそれを叶えてくれた。クリスタは、まだ赤ん坊でありながら、自分から会いに来てくれた。
それだけで十分だった。
という裏設定がある。
このような秘密を隠すため、封印するための作品として、知られてはいけない秘密をしまい込む部屋として、マルコは扉の絵を描く。残念なことにこの絵がクリスタに見つかり、タイトルに記載された秘密とはなにかを知りたくなったクリスタは、この絵から絵の世界に入りこんでしまうことになる。
自分がやるべきこと
歳を重ねるごとに人は我慢をしなければならなくなる。
たとえば大嫌いな上司から「お前は仕事がとろいな」なんて言われても、それをぐっとこらえて胸のうちに秘める。
「申し訳ありません」謝るくらいしかできない。
本心では「は?ふざけんな、なんだよなにしに来たんだよ。罵声浴びせるだけがてめぇの仕事かよ。ろくにアドバイスの一つもよこさないくせに偉そうにすんなよ」と言いかえしてやりたいことだろう。
しかしそれをしないのは、世間体だったり、職場の環境だったり、立場だったり、性格だったり。様々な要因が絡んでくるからである。
わたしもつい先程我慢をした。
言いたいことがあった。でも言わなかった。なぜなら、人を傷つけてしまうから。
その人のことは傷つけたくなかった。人を傷つけるくらいなら、自分ひとりが傷ついて地面をのたうち回っている方がマシに思えるからだ。
人を傷つけてまで自分の言いたいことを貫き通すなんてことは、ひとから嫌われることを恐れないか、あるいはなんとも感じない人間の所業である。
ひとは他人から好かれるように行動する。そうしないと生きていくのに不便だからだ。わたしと田中君は仲良し。わたしと鈴木くんも仲良し。でも田中君と鈴木くんは仲が悪い。板挟みの状態だ。さてどっちと仲良くすべきか。
一方と仲良くすれば、もう一方からは嫌われる。嫌われることを恐れるあまり、どちらともほどほどに付き合うようになる。
しかしだんだん疲れてくる。あっちにいけばこっちの悪口。
「なんでお前はあいつなんかと仲良くしてるんだ」なんて言われる始末。
「そら、やつにだっていいところはあるし、今度一緒に遊んでみないか?」
こんなふうに切り替えせるなら、それはそれはすばらしい人格者であることがわかる。
小学生ならうまくやれるのかもしれない。
これが大人になるととたんに厳しくなる。田中君が田中商事。鈴木くんがスズキ財閥と名前を変えるだけでとんでもない難易度に跳ね上がる。
両者の関係をうまく保ちながら、互いの印象を悪くせず、なんらな協力させようものなら、その努力と労力は計り知れないものだろう。
わたしには無理だ。
どうせなら誰とも仲良くない佐藤くんと新たな親交深めるほうがよっぽど楽である。
オトナの世界には利益なんてものが鎮座しているせいで、新しい親交開拓も一筋縄ではいかないことも覚えておかなくてはならない。
話がそれてしまったが、表題に戻ろうと思う。
自分がすべきこと、それはいますぐパソコンを閉じて、まともな仕事に就いて、日々の生活費をコツコツと稼ぐことだ。
そうしないと生きているだけで浪費されていく資金を埋めることなどできないからだ。
やるべきことははっきりしているが、それをすることに対してモチベーションが上がらない。単純に堕落しているのではなく。ある種の疾病を抱えていることに要因がある。
それをうまく乗り越えて、なんとか仕事をしていたが、とうとうだめになった。
戻れる気はしていない。
戻るつもりもない。
戻ったところで、自分が失った何かを取り戻せるわけでもないし、よりよい未来が待っているとも考えにくい。
かっこつけているが、わたしは逃げ出した。いやなことから逃げ出して、くだらない文章を思いのまま書き連ねている。こんな行動がまともな人間の取る行動だとは思えない。自分を自分が否定している。バカにしている。自分自身を信じていない。信じられるものか、こいつは幾度となく他人を裏切ってきたのだ。
それもおおよそ行ってはいけない方法で何度も。
原因は自分以外にあることも確かではあるが、乗り越えることのできなかった自分に多大なる責任と、重大な欠陥がある。
だめな部分を認めて、できることから再出発したいと考えている。
これはひとりよがりだ。
自分勝手で身勝手な行動だ。
きっとわたしのケータイには数件のメールが飛んできているだろう。それをいまは無視してこんなものを書いているのだから。罪深い。
いまやっていることが正しいことなのかわからない。きっと間違った行動だろう。けれども、それが自分のしたいことなのだからやめるわけにいかない。
これも板挟みの状態だ。
後悔はしている。
このブログを始めたこと。
書くことを始めなかったこと。
書くことをやめてしまったこと。
続けられなくなったこと。
考えれば考えるだけ後悔もでてくる。
うまく書けなくなったからやらなくなったのではない。もともと書ける自信がなかった。書くことが好きでいるために、嫌いになるのが怖かった。
わたしは一度好きだったものを否定されて、それを失ってしまったことがある。失くしてしまったのは自分の意志だったけれで、向き合うこともつらくて、なかったことにした。心の中で封印して、興味を示さないようにした。そしたら気持ちが軽くなった。
別にそれに固執する必要はないしまた違った好きなものを見つけたらいいと思った。
でも、それは正しい選択ではなかった。
あとになって正しくなかったとわかった答えなので、予期することはできなかっただろう。捨てることにした当時の自分を恨むことはない。恨むべきはわたしの「好き」という気持ちを踏みにじった連中だ。けれども、恨んだってしかたない。悪気があって否定したわけではないから。
だからこそ、悪として成敗することもできなければ、最初の自然体な気持ちをいまさら取り戻す事もできない。心の中に生まれてしまったわだかまりが、常にわたしの考えを蝕んでしまう。
そしてたった一度の失敗でありながら、その恐怖はトラウマとなり、永遠と心の奥底に潜んでいる。
二度と同じ失敗を繰り返すものかと構えてしまうと、思考は柔軟に働かなくなり、受け入れることを拒むようになる。
好きになれば、嫌いになる可能性をはらんでしまう。好きでい続けることができないかもしれない。本来考える必要もなければ、恐れることもないはずの余計な考えが、わたしの中には生まれてしまうのである。
自分が異常者であるという認識
自分が異常者であると感じたことはあるだろうか。
わたしはある。ほとんど常に異常な傾向があると感じている。
他人と比較して、一方的に感じているだけであるが、異常性は誰もがもっている負の感情の塊ではないだろうか。
新聞やニュースでは毎日人が死んでいる。それは事故なのか、寿命なのか、殺人なのか。いろいろあるだろうが、人は毎日殺されている。日本のどこかでも、世界のどこかでも。
では人を殺す人間はみな異常なのかと考えてみる。
一般的には異常だろう。人を殺してしまうなんてだいそれたことを平気で行ってしまえるのであれば、それはまぎれもなく異常者である。
しかし、人を殺すのが平気なはずがあるだろうか?
薬物で思考が飛んでいたりしない限り、人の命を簡単に奪うようなことを、平気で行える人間はよほどいないと勝手に思っている。
実際に行動に移すことはほとんどないにしろ、人は平気で他人の死を願う。
「死ね」「消えろ」わりと平気で口にするだろう。
死んでほしいと願うこと。あいつが死ねば良いと考えること。そんなことは誰もが平気で考えることで、それは非常に一般的で普遍的な感覚。生物として正常な感覚を持ち合わせているからこそ感じるものであり。それを思考するのは、人間の特徴とも言えるのではないだろう。
考えるまでは正常。口にする人間は普通。行動にうつすと異常。
段階的でありなかなかおもしろいではないだろうか。
わたしはもちろん人を殺したこともないし、滅多なことで人に向かって「死ね」などと口走ることはない、わたしはこの上なく正常な人間だ。けれども、脳内で何人の人間を殺しただろうか。通りすがりの人間を斬りつける想像を何度シミュレーションしたことか。わたしが道を歩いていて目の前を歩く人間がたばこを吸っていたら、すぐさま空想の拳銃を取り出して、そいつの後頭部めがけて躊躇なく発砲するくらいには、わたしの銃の腕は上達している。
多少冷静なときには頭を打ち抜くのではなく、やつの持っているたばこの先端をかすめて火を消せるようにもなった。
なかなかクールではないか。
歩きタバコが禁止されている区域で、おろかにもたばこをふかして歩いている迷惑極まりない人間を見かけたら、右腰にひっさげたホルスターから、6弾装填式のリボルバーをコンマ1秒の速さで引き抜いてたばこの火を撃ち抜く。
これで街の歩きタバコは撲滅できるに違いない
しかしわたしの住む街では拳銃を持ち歩くことも禁止されているのだ。どうやらこの手は使えそうにない。
こんなことを考えながら街を歩く人間が他にどれくらいいるだろうか。
漫画好きやアニメ好きにはそういう人種ももちろんいるだろう。ヤクザ映画が好きな人なら、怖い顔したいかにも強そうな(悪そうな)人が「あの~ちょっとすみません。ここ、歩きタバコ禁止区域なんです」なんて落ち着いて声をかけたら、タバコを吸っていたあんちゃんは、びびってタバコを地面に落っことすかも。
なんて考えるのだろうか。そして怖い顔の人はこう続ける。
「ポイ捨ても、禁止なんです」
文字を書くということ
たった今1万字を書き終わった。
これはなかなかの達成感のある作業だった。
自分にもやれることがあると思うと、それだけでもいい気持ちがする。
それにおかしなことに、とっても疲れたはずなのに、こうしてまた文字を書き込んでいる自分がいる。なんということだろう。
自分が一番驚いている。中毒性をもたせることがこのブログを続けるポイントではないかと思ったから、こうしてまた思いついたことを記録しているわけだ。
中毒で書き込むことは危険をはらんでいることもなんとなくわかるし、考えたままにつらつらと文章を上げることだけではいけないこともわかっているつもりである。今自分が気にしているのは、この文字を入力するごとに増えていく右下の文字数である。
↑
ここまでで約300文字。
こういうことに気がついてしまうと気が散って集中することが難しくなるが、いまはもう余韻を感じながらぽちぽちと書き込んでいるだけの時間だけに、それすらも気にしなくていいと思う。
自由に書こう。自由な空間だ、これは自分にとっての自由な時間。自由を際限なく楽しむこと、それが今の自分には大事なのである。頭に浮かんだ文字を徹底して打ち込んでいく作業。単純作業で集中力が上がるだろうか。タイピングも多少はマシなるだろうか。
昔からなにかを極めることが苦手だった。少し前の記事でオランウータン型といって追求型と診断されたばかりではあるが、実はそういう性格じゃない真反対の自分もいたりするんだ。
たしかに追求することで上達していくことも多くあった。高校生のときに部活の大会に出場したときのこと。
自分専用の練習場が用意されてひたすら何時間も練習した。するとメキメキと腕を上げたわたしはついに大会の本番でそこそこの成果を上げた。具体的な内容は控えるが製品を仕上げる速さと正確さを競う大会であり、わたしは出場者の中でもっともはやく作業を終了させた。結局のところ、外側のよく見えるところにでっかい傷をつけてしまい、それが理由で順位は多少落とされてしまったわけだが、それでも完成品の精度もわるくなかったし、作業は本当に早かった。レベルは高かったと思っている。先生にも高く評価されていた。あの頃は、まだまともな自分が生きていた気がする。
いまと比べると、よく頑張っていた時期だったと思う。当時から自分は周りから高く評価されていたから、こうして自分を振り返ると、どうしてほんとうにこんなふうになってしまったのか、疑問が大量に湧いてくる。やる気の問題なのか。それだけではない気もするが、考えてもしょうがないと、自分と向き合うのをひたすらに逃げてきた。
認めよう。わたしは逃げました。生きることも、働くことからも。やりたくなくなったのだ。自分がしたいことはそんなことじゃない。自分がやっていてたのしいことは決して金属部品を磨くことじゃない。自分自身を磨くことである。
なにをもって自分を磨こうか、どんなことでもいいと思う。これでいいじゃないか、書くこと。思うことを書く続けること。幸い、考えることも書くこともそれほど苦痛じゃないし、タイピングが早くなれば、思考回路にもついていけるかもしれない。もともとタイピングも遅いほうじゃない。苦手な部分はなれと訓練でカバーする。明日になれば多少はマシなる気もする。大変便利なタブ機能も見つけてしまった。
効率を上げて、書きたいことをかけるようになろう。
できうる限りの自己分析2
自分がなにをしたい生き物なのかを知ることは、この先を生きていく上で、人生の目標になる可能性が高いので、重要なことであることがわかる。
では自分がしたいこととはなんなのか。
考えても考えても、浮かんでくるのは次のようなことばかりである。
・働かずにお金を稼ぎたい
・美味しいものを食べたい
・安眠したい
・どうせ生きるなら幸せでいたい
・やりがいを見つけたい
・生涯の伴侶となる人物と多くの時間を過ごしたい
・たのしいことをたい
こんなところである。
順番に考えていこうと思う。
・働かずにお金を稼ぎたい
誤解を招きそうだから最初に言っておくが、別に働きたくないのではない。
意味としては、「自分のしたくないこと、おもしろくないことをしたくない」という意味である。
生きていくためにはお金は必要だし、働くことも健全な人間のあるべき姿として必要であることは理解している。しかしながら、やりたくもないことを無理して続ける必要などないという考え方もできるはずである。
きっと誰もが常日頃から感じていることではないだろうか。仕事をしている半数以上の人たちは、生活のためにいやいや仕事をしているのではないだろうか。少なくともわたしは、仕事が大好きで、毎日職場に通うのが楽しくてしょうがないなんて人を見たことがない。きっとわたしが今までに狭い世間しか見てこなかったからだろうが、想像するに、大抵はお金のために働いているのではないだろうか。
無理して働いて、体を壊せばせっかく必死で稼いだお金がお薬代にかわっていくなんて考えたくもないだろう。そんなのわたしは嫌である。
なんの実績も残していないわたしがいうだけでは、現状ではただのわがままでしかないわけで非常に悔しい。
・美味しいものを食べたい
内容は大変シンプルで、文字通り美味しいものを食べたいのである。
しかしシンプルながらも、これを達成するのは大変なことなのではないだろうかと考える。まず出来上がったもので、美味しものというのは値段が高い。材料が高級、希少。料理であれば、調理にやたら時間と手間がかかっている。つまり金がいる。お金、お金と続いてしまい、こいつは金のことしか考えてないのかと言われてしまいそうだが、そうと決めつけずに聞いてほしい。極端な話、お金がすべての悩みを解決してくれると言っても過言ではない。お金がそういった可能性を秘めていることは間違いないが、わたしはいままでに大金を使ったこともなければ、手にしたことすらないので、信憑性は低いだろう。あくまで想像の話だ。
はたまた、金さえあればなんでもできるなんてのは、貧乏人の空想に過ぎないのではないかとも予想している。金持ちは金持ちなりに苦労するはずだ。
美味しいものの話をしよう。
その前に前提として、わたしは食欲が薄い方である。
食欲がまったくないわけではない。生きていればお腹は鳴るし、空腹感も訪れる。けれども「何が食べたい」という思考の変換がうまくいかないのである。自分はなにかの病気ではないかと疑った。拒食症だろうか。でも食事が出てくれば普通に口に運べるし、咀嚼をして飲み込むこともできる。その後に気持ち悪くなって吐き出してしまうなんてこともない。そのあたりは正常であるが、問題点は食べるまでのあいだにある。
食欲がない。これは体の異常である。
健康な人がお腹が空けば何が食べたいと食欲が湧くものである。
ではいつからわたしは食欲がなかったのか、思い返せばいくつか心当たりがある。
幼少の頃にさかのぼることになる。まだわたしが小さい頃、親から「何が食べたい?」と聞かれることがあった。きっと誰もがあるだろう。
しかしわたしはその質問に一度としてまともに答えたことがなかった。返事をしなかったのではない。
「何を食べたいか」これを聞かれたとき、わたしは「赤い魚」と答えていた。
6歳ころの記憶のため正確には覚えていないが、おそらくみりん漬けのことである。
では本当にみりん漬けが食べたかったのか、答えはノーだ。
「食べたいもの=食欲が示す食べ物」ではなく「食べたいものと聞かれたときに答えるもの=赤い魚」だったのだ。
つまりそれしか知らなかった。そしてもっと重要なことは、そう答えると親が喜ぶような気がしたのだ。
「〇〇ちゃんは赤いお魚が好きだねぇ」そう言ってもらえるのが嬉しかった。別に赤い魚が本当に食べたかったわけじゃない。本当はハンバーグが食べたかったかもしれないが、ハンバーグは作るのが大変だってことも知っていた。親の手を煩わせたくなかった、自分のわがままで親を困らせるものかと子供心に感じていたのだ。
小学生になってからはそれが顕著になった。さすがに小学校低学年をすぎた時分に、赤い魚が食べたいとは言わなくなっていたが、それ以上に、食べたいものを答えることができなくなっていった。そうして親の質問はだんだんと「食べたくないものは?」に変わった。わたしはそのたびに食べたくないものを答えていた気もする。残念ながらこの作戦はかなり短い期間で終りを迎えた。食べたくないものなんてとくにないし、食べたくないなんて答えることは食事を用意してくださる人に対して失礼であると理解していたから、わたしはより一層返事ができなくなった。
さらにしばらくすると、ついに親はわたしに食べたいものを聞かなくなってしまった。えらいもので、おとなになってからは「そろそろなにが食べたい季節だな」と思うと、食卓にその料理が登場するようになった。以心伝心とかそういうんじゃなくて、たぶんどの家庭にもあるだろう、冬になったら鍋、みたいなことというのは。
わたしの体もその流れを掴んだだけに過ぎない。
ここでひとつ自慢したいことがある。たまにだが以心伝心が起こることもあるのだ。わたしが餃子が食べたくて、仕事帰りにみよしので餃子を買って帰ると、すでにキッチンには大阪王将の包みがおいてあった。母も餃子が食べたかったそうだ。そのときはふたりで笑ったもんだ。特に母が大笑いしていた。
おとなになってから、実家で食事をするときに、ごくたまに「なにが食べたい」とリクエストするようになった。ほんとに食べたい物があるときはできるだけ伝えるようにはしている。これは要するに、なにが食べたいと申し出ることで、料理をする人が献立を考える手間を省くという意味があるのだ。その仕組みに気がついたのは高校を卒業する頃だった。
美味しいものを食べたいというのは、そのまえに食欲を取り戻したいという意味合いを強くもっているように感じる。
ここ数年のあいだに、何かを食べたいと感じたのはどれくらいあっただろうか。生きるために摂食する。それが自分の食事に対する考え方になってしまっていた。だからこそ、美味しいものをわたしは食べたいのである。
・安眠したい
日本人の多くが抱える問題の一つに睡眠がある。
と聞いたことがある。
安眠したい。これは質の良い睡眠をしたいという意味である。
質の良い睡眠を取ることができれば、ストレスや疲れから開放されて、生きる気力もいわてくること間違いなしである。反対を言えば、どんなに良い生活ができていようが、毎日悪夢にうなされてしまえば、それだけですべてがおしまいにさえ感じてしまうだろう。
わたしはよく夢を見る。それもたいていは見たくもない夢。仕事の夢や、何者かに追われる夢。夢の中では苦しいことばかりが起こる。
夢の中の設定で、目の前にものすごい悪い人がいる。その人の顔をたくさん殴りつける。これでもかと殴りつける、しかしほとんど手応えがない。反撃こそされないものの、致命傷を与えなければいけない、という設定なのにそれを達することができない苦しみ。
続いて場面が変わり、今度はなぜか呼吸ができなくなる。夢のなかでは「これは寝ている自分ののどに舌が降りてきたんだろう」と冷静に理解しているのに、まるで目覚めようとせず、必死で息をすおうとするが、うまくいかない。そんなことが繰り返し繰り返しおこる。ひどいときは本当に歯が折れてしまうのではないかと思うくらい前歯に力が加わることがある。折れそうで別の意味で怖い。
そして強烈な夢を見たその朝目覚めると頭痛がする。軽いものですぐにおさまるが、これが毎朝起こると結構参ってしまう。想像してほしい、毎日悪夢ともよべる夢を見続けて、目覚めるたびに脳と体が疲弊している。これではなんのために睡眠をとっているかわからない。眠らないほうがかえって疲れないかもしれないと、何度も思った。徹夜などできたためしがないが。
人は眠ることでその日の疲れを癒やし、できごとを脳内で整理する。場合によってはそれを記憶し、身につける準備期間とすることもある。昨日できなかったことが、翌日になって突然できるようになることがあるのは、そういった脳の処理によるものである。
そしてその処理が行われている最中にレム睡眠に入ってしまうと、人は夢を見るわけだ。レム睡眠とは体が眠っているが脳が覚醒している時の状態。一般的に眠りの浅い状態であり。朝方にむけて眠りは冷めていく、そして目が覚める直前まで夢を見ていることもある。それが短期的な記憶に残り、起きてからそれを書き留めたり、意識的に記憶するようにすれば、夢を覚えていられる。
わたしの最近の夢でいえば、透明なゲル状の生物らしき物体の表面に、赤色のまると青色のバツが規則的に並んでおり、それら3体が学校の廊下をぬめぬめとならんで進んでいく様子が印象的だった。
また、1Fから9Fまである折返し階段を最下段付近まで降りたところで、紫色の地面が見え、何らかの危険を察知した自分と、誰かはわからないがもうひとりがいて、引き返そうと振り返ると、その瞬間に上り側の階段も下りになってしまう。なんとか上階へ登り、迫りくる紫色のなにかから逃れるべく、6Fまで駆け上るとそこに扉がある。次にその扉を開くイメージが湧いてくる。開けるとそこは、いわゆるはずれの扉であり。本当は7Fの扉をあける必要があるとわかる。なぜわかるのはか不明。夢だから。
また階段を上がる。次の扉が見えればそれが7Fの扉だから、本来はそれを開ければよいはずなのに、なぜか自分たちは7Fでは扉を開けずに最上階の9Fまで登ることになる。理由は不明。夢だから。
9Fまで上がりきって扉を抜けると、紫色の驚異からは逃れることはできる。しかし今度は9Fにはまた別の化物が存在する。という設定なのである。
こんな調子の夢を繰り返しみることが、目覚めたときどれだけの疲労感をあたえてくるか、わかっていただけると嬉しい。文字にして読んで見れば「なんだそれ」程度の内容かもしれない。良くてなんか面白いと感じていただける内容かもしれない。けれども夢の中では真剣そのものであり、階段を駆け上がっている自分は息も絶え絶え、息苦しくはならないが、心拍は上がっている感じはする。紫色の何かはよくわからないものに、触れられたら本当に死んでしまうかもしれない、学校の廊下をぬめぬめとゆっくり進んでいくゲル状の物体も、遠くから見ているからこちらに害はないが、安易に近寄れば襲ってくるかもしれない。そう思って恐怖と戦っているのである。ちなみにその物体は80センチくらいの大きさである。
ちょっと前に見た夢ではゾンビに噛まれて絶命したところまで覚えている。夢だから「あなたは死にました」とは出ないものの「自分は死んだのだ」と冷静に感じてしまうのだ。起きてしまえばありえないこととわかるけれど、見ている間は本当に恐ろしいものである。さすがにそのときは自分でコントロールして夢から覚めることができた。
安眠とは、こういったものから開放されて、目覚めたときに疲労していないことである。
わたし自身夢を見ること自体は好きだ。上記の通り、内容は荒唐無稽で支離滅裂、恐怖体験でしかない場合もあるが、話のネタにはなる。ごく小さい話のネタではあるが。
これを作品として取り上げて、フィクションとして昇華できれば、それはある意味儲けもんだ。そんなこともしてみたいと思う。だから夢を見るのは大歓迎だ。できることならほんとうにわけのわからない内容がいい。仕事がうまくいかないものとか、夢の中でもやりたくないことをやらされているとかは勘弁願いたい。
あとは睡眠時間も重要だ。わたしは平均して7~8時間眠ることが多い。数字で言えば理想的な睡眠時間と言えるらしいが、その実態は悪夢と起床後の倦怠感である。睡眠の質に問題があるとしか思えない。また7時間ほど眠るのは、そうしないとまともに働けないからだ。それだけ眠っても仕事の休憩時間は眠っていることが多いから、長い時間眠っていながら、実は眠れていないということになる。質の良い睡眠を取ることができれば、睡眠時間を短くできる。そうすると活動時間が増やせる。睡眠の質を上げることは人生を豊かにすることにおいて無視できないことであると考えている。
・どうせ生きるなら幸せでいたい
わたしはどちらかというと死にたいと思っている人間だ。
理由としては、生きる意味がないから。生きがいがないから。といったことろである。
けれども死ぬことは罪深いし苦しいらしい。だから死ねない。生きねばならない。
義務的に生きているようなものか。毎日が楽しくて、明日もやることがいっぱいな幸せなひとになれるなら、それがきっといいのだろうが、いまはそんな気にもならない。少なくとも死なずに生きていくこと。寿命か不慮の事故で亡くなることが最終地点である。自らの手で命を絶ったり、殺されるのはごめんだ。それはなしにしてほしい。
では、生きていくしか選択肢がないならば、生きる期間を数えてみよう。80歳まで生きるとしても、いまが20代。あと60年はある。
60年。きっと長いんだろう。わたしが生まれてからも医療が進歩して発展してきた。60年も経てばもっともっと人間の平均寿命は伸びるはずだ。嫌でも生きる時間は増えるわけだ。ならば楽しく生きなければ損だろう。
幸せをどれだけ手に入れられるかが、その人の人生を豊かにする。最初にも言ったとおり。わたしはどちらかというと死にたい人間だ。人生を豊かにすることに興味なんて元々ないが、どうせ死ねないのだから、せめて苦しみの少ない方向で生きていたいとおもうのである。
けれども、楽しいことなんてなかなか見つかるもんじゃない。
楽しいことが起こると、嫌なことも起こる。嫌なことがあっても、楽しいことがあれば乗り越えられる。こういう原理がもうすでに好きじゃない。
嫌なことが起こるならそのまえのたのしいことはいらないし、嫌なことがあって、もしそれを乗り越えるだけの楽しいことが見つからなかったら、生きているだけ損をしてしまう。損得勘定で捉えてはいけない事かもしれない。では、生きる意味とはなんなのか。
幸せになること以外にありえないとわたしは思う。
幸せになることが生きている意味を感じさせてくれるたった一つの方法だとわたしは思う。
人間誰しも、不幸になるためには生まれてこない。愛されるために生まれるべきだ。愛されないとわかっていながら生まれてしまったら、その人は生まれながらにして不幸である。不幸が良くないなら、その反対の幸福が良いことになるはず。あえて論ずるまでもない。人は愛されて幸せになるために生まれるべきなのである。そしていま自分が幸せでないとしたら、愛されていないとしたら、それは考えなければならない。
なんの間違いかはわからないが、この世に生をうけてしまったのならば、死んではならない。生きていくならば、せめて不幸にはなりたくない。どうせ生きるなら幸せでいたい。
どうすれば幸せか、最初に書いたことを達成したら。そこそこ幸せになれるんじゃないのだろうか。だからこうしてそのための一歩を着々と刻みつけているのである。
・やりがいを見つけたい
これは先に書いたことと重なる部分が大きい。
生きるには目的が必要。何も考えず生きている人間なんていない。
なんにも考えていなさそうな人でも、きっと好きなことがあり、気に入った人がいて、好みの食べ物があり、気持ちの踊る音楽がある。神様から授かった喜びを感じる器官が備わっているんだから、それを使いたいと思っていても不思議はない。
何も考えずに生きている人はいない。
くしくも人間は男女の性別があり、お互いを惹きつけ合うなにかをもっている。男性は美しい女性に惹かれ、女性は自分を一生愛してくれる男性を求める。本能の部分の話になりそうだし、これ以上は吐気がするのであまり書かないことにする。人間の生物的な部分を意識してしまうせいで、わたしは人の色恋があまり好きじゃない。この考え方を植え付けてくださった何者かをわたしはそれなりに恨んでいる。本だったか、ゲームだったか、はたまた人から直接聞いた話だったかは覚えていない。とにかく嫌いなのだ。勘違いしてほしくはないから、あえて記載するが、恋愛が嫌いなのではなく、それをつきうごかす心理の根幹の部分が好きじゃない。生物としての本能の部分だ。そういう原始的な意識によってひとが恋愛をさせられているのかと考えると、まったく怒りを覚える。神様もほんとによけいな機能を授けてくださったものだ。数を増やすだけなら別に男女の分離は必要なかっただろうに。
話を戻そう。何も考えていなさそうな人間でも。きっと好きな人の一人や二人はいるだろう。そしてその人と仲良くしたいと思う。男ならテレビに出ている可愛らしいアイドルの子たちに魅力を感じてしかたがないだろう。可愛い子たちを愛したいし愛されたい。そう感じているに違いない。内容が重複してしまって申し訳ない。
他にはたとえば、あれがやりたいこれをしてみたい。そんな小さな望みがたくさんあるはずだ。例えばニンテンドースイッチがほしいとか。そろそろクリスマスですね。サンタさん、わたしにニンテンドースイッチをください。いい子にしてなかったから無理な気がする。
なぜわたしはスイッチを欲しがったのか、残念ながら自分がゲームをしたいからではない。一緒にゲームをして遊びたいからだ。誰と→好きな人と。
こういうことである。ではそのスイッチを手に入れるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぐには働かなくてはならなくて、働くなら自分のやりたいことをしたい。自分にとって面白くないことは、仕事として続かないのである。
仕事をしていて集中することができるならば、時間が経てば業務が終了する。もしくは、自分に与えられた業務を完了すれば、代償をいただける。そうやって働いていくことが大事である。なによりも続くこと、無理なく続けられること。そうでなくては仕事の意味がない。
仕事が生きがいであればそれこそ素晴らしいことである。
毎日続けても苦しくないだろうし、それをすることが自分のため、まして人のためになるのであれば、そんなに素晴らしいことはないだろう。だからこそ、ひとは自分のみならず人のためになる仕事をするようになる。人様に感謝されたい。そう願うから、お仕事を無理なく続けられるのである。
仕事をする、無理なく続ける、お金を稼ぐ、人の役に立つ、自分のためになるこういった調和が保てることが理想形である。
自分になにかできることはないか、ひとはそうやって生きることが幸福を感じる近道であることを知っている。反対に、他人に邪魔され、否定され、蔑まれることが不幸であることも知っている。そうならないように人は生きるしかない。
◯休憩
だんだん腕が疲れてきた。少しづつ休憩をはさみながら書いてはいるが
けれどあと少し、もう少し頑張ればゴールが見えてくる。達成するまでは書き続ける。今日の目標はあと少し。
◯
表題からまたそれてしまって申し訳ない。
わたしが冒頭にあげたいくつかの項目はようするに、お互いが密接に関わっているのである。大きな望みでまとめてしまうなら、それはつまり「生きたい」になるのではないだろうか。拡大解釈すぎて自分自身鼻で笑うしかないのが事実であり、あまり認めたくないこともまた事実だ。
途中でどちらかといえば死にたいと思っているなんて書いておきながら、そのもとの意味を読み解けば生きたいという回答になるなんて、バカげているとしか思えない、わたしは矛盾だらけだ。矛盾の中で生きている。
だからこうして自分を理解するために書き込んでいるのだ。まだまだ自己分析は終わっていないからどうぞ続けて。
やりがいについてだが、達成感や充実感は何かを成し遂げる上でのおおきな原動力となる。一度味わった充実感がもう一度ほしくて何度も何度もと同じ行動を取り続けるのは、人としてごく一般的な思考回路である。子供がアイスを欲しがるのと一緒。
達成感はまた一味違っており、困難な問題に直面し、自分たちの力で乗り越えることで快感を覚える。パズルが解けるとスッキリする。反対を言えば、解けない問題は気持ち悪いのだ。できることを繰り返し行う充実感と、できなかったことをクリアする達成感を味わうことで自分に満足感を与えることができる。人は満たされると気持ち良いのだ。わたしもパズルが好きだ。特に知恵の輪が好きだ。自分の力で外せたときはそれはもう飛び上がるほど嬉しくなる。実際は飛び上がることもないし、ぐりぐりしていたら外れてしまったという場合がほとんどである。つまり驚きのほうが大きい。
そしてもとに戻せなくなり、諦める。これは達成感を味わっていないからやめてしまうのだ。自分で外したという確信と、自在に操る方法を理解することではじめて、もう一度試してみようと思い立つのである。これがやりがい。
やりがいについて多くを書き込んでみたが、なかなかうまく説明ができない。
これ、おもしろいな。とちょっとでも思えるなら、それが全てである。
面白い、もう一回してみたい。これをすれば達成感を味わえる。
わたしにとっての充実感は他人からの評価である。特に自分が作ったものへの評価。もちろんいい評価だ。
あなたの作るものは素晴らしい。そう言ってもらえれば、次への原動力になる。わざわざ下手な例を挙げるまでもなく、人からいいねと言われることがやりがいなのではないだろうか。
まとめれば、自分が書いたものが人から評価されて、売れて、金になれば最高だということ。
・生涯の伴侶となる人と多くの時間を過ごしたい
自分のしたいことのほとんどの部分がこの項目に収束している。わたしが生きる意味は何かと尋ねられたなら、その回答はたった一つ「愛する人を幸せにすること」これに尽きる。それ以外に生きる意味なんてない。自分のために生きなければならないのならば「自分が幸せになる」で十分だが、自分の幸せを考えたときに、どうしてももうひとりの助けが必要であることがわかってしまったのだから、もうどうすることもない。あとはただひたすらにその人の幸せを考えて行動するだけである。
表題とは話がずれたので修正する。一緒にいられる時間は限られており、その人とともに過ごす時間が大切な思い出になるのならば、できるだけ一緒にいたいと思った。それだけなのである。一緒にいればお互いすれ違うこともあるだろうが、一緒にいなければ触れ合うことすらできず、幸せにしてやれる可能性は目減りしてしまう。必ずしも近くにいないといけないわけではないが、この問題はわたしの幸せの部分にも大きく関わってくるから、結局のところ、二人は一緒にいるほうがなんとでもしやすいのだ。困ったときに助け合う。悲しいときにそばにいる。そのためだけに生きていくというのも悪くはないだろう。このことは多くは語るまい。
・たのしいことをしたい
たいへんざっくりしたテーマである。
楽しいこととはなんだろうか、楽しくないことじゃないことである。
楽しくないこととは、笑えないことである。
わたしは普段からあまり笑わない人間である。笑えないとも言えるだろうか。おかしなことがあると吹き出してしまうことがあるだろう。楽しければ笑顔になる。それが普通だ。
わたしは面白いとおもうことはあっても、それを笑いとして表に出すことが非常に少ない。別に笑いたくないのではない。腹の底から笑ったりできなくなってしまっているのだ。笑うことはあっても、息ができなくなるほどにはならない。ツボにはまることもなくなってしまった気がする。最近ほんとに笑っていなくて自分が心配になる。
思えば幼少の頃はしょっちゅう笑っていた。なにがそんなに楽しかったのか。なにがそんなに笑えたのか。くだらないことで大笑いしていた。そんな自分が薄ら寒く感じるようになってしまったのだ。笑っている自分を冷めた目で見下ろすもうひとりの自分。冷静になってから、恥ずかしくなる自分。そんな自分のせいで、わたしはだんだんと笑わなくなった。笑えなくなった。
面白いと感じることはたくさんある。しかしそのおもしろいという感情は感心へと流れてしまう、そんな面白いことをよく思いつくな、と思うようになる。
いつ頃からこんなふうになってしまったのか。小学生の時はよく笑っていた。中学生もよく笑っていた。高校生くらいまでは多分笑っていた。そのあとから笑えることが少なくなって、おかしくなって、どうしてこうなったのか。
自分は笑ってはいけないとさえ思っている部分もある。年の瀬のダウンタウンさんの人気番組を一人で延々と行っているようなものである。悪いことにわたしの番組には笑わせに来る人が一人もいないのだ。本当に笑えない。
楽しくないこと。ほかには例えば、自分を否定されたりすること。
注意を受けたり、処分されたりする。
何も楽しくない。全然笑えない。
そんなことは間違っても起こってほしくない。ただでさえ笑うことの少なくなったわたしに、これ以上の仕打ちは勘弁してほしいものだ。
楽しいことといえば、一般的に言えば趣味だろうか、楽しくないことを趣味にする強者はなかなかいないだろう。楽しめるからこその趣味であって、それは人生を豊かにする一つの大きな要素である。
では自分の趣味はなにか。
これが特にないわけだ。これが非常に大きな問題点ではないだろうか。
楽しいことをする、これに対する回答は趣味を見つける。ということになりそうだ。
まあ、わたしの趣味はコーヒーなのだけれども。
これに関しては楽しいというよりも、中毒的な部分があるので、声を上げて趣味とは言えないのだ。たばこを吸うのが趣味の人がいないように、コーヒーを飲むのは趣味になりそうにない。わたしは自分でコーヒーを淹れているから、ギリギリ趣味と呼べるのかもしれない。
あとは文章を書いたり、お風呂に入りながら思考を巡らせること。空想に浸りながら、自分の面白いと思った物語の展開を繰り広げること。それをまた文章にして、作品にして、評価されて、売れて、金になれば儲けもんだ。そういうふうに考えている。
将来の夢は作家になること。そんなふうに思ったこともある。今からでも遅くないとも思っている。時間は掛かりそうだけれど、なんとか続けることができれば、なんとかなるかもしれない。
さて、ここまで書いてきた。大変な作業だった。
自分のやりたいことをいくつか並べただけでもこれだけの分量になる。
この十倍書くことができれば、それがだいたい小説1冊分の分量になるらしい。
10日続けたら見事作家デビューというわけである。そんなことはまずありえないけれど。
しかしなによりもまずは自分の中から生まれた言葉を文として、言葉として記録することが、書くものとしての基本的な動作になるわけだから、今行っているこの行為は決して無駄にはならない。文字を書くこと、文にすること。タイピングの練習をすること。集中して作業に取り組むこと。これらが当面の目的である。
途中で休憩をはさみ「もうすぐ終わりだと」書いたが、目標としていたのは1万字を書く込むことだった。文としてどれくらいの長さになるのか、作業時間はどれくらいかかるのか、自分はどこまでできるのか、知る必要がある。できることをできる限りやらなければ、自分は生きていけない。この行動こそ、これからの自分の支えていく大きな柱になるかもしれないのだから、決して諦めてはならない。飽きてもいけない。わたしの欠点の一つに、飽きっぽいということがある。これをなんとかしなければいけない。
自分がやりたかったことは、まずこれが第一であり。今はこれくらいしかできることはない。できることから始めていこうと思った。だからこそこのブログを始めたのだ。