自分がやるべきこと

歳を重ねるごとに人は我慢をしなければならなくなる。

たとえば大嫌いな上司から「お前は仕事がとろいな」なんて言われても、それをぐっとこらえて胸のうちに秘める。

「申し訳ありません」謝るくらいしかできない。

本心では「は?ふざけんな、なんだよなにしに来たんだよ。罵声浴びせるだけがてめぇの仕事かよ。ろくにアドバイスの一つもよこさないくせに偉そうにすんなよ」と言いかえしてやりたいことだろう。

しかしそれをしないのは、世間体だったり、職場の環境だったり、立場だったり、性格だったり。様々な要因が絡んでくるからである。

わたしもつい先程我慢をした。

言いたいことがあった。でも言わなかった。なぜなら、人を傷つけてしまうから。

その人のことは傷つけたくなかった。人を傷つけるくらいなら、自分ひとりが傷ついて地面をのたうち回っている方がマシに思えるからだ。

人を傷つけてまで自分の言いたいことを貫き通すなんてことは、ひとから嫌われることを恐れないか、あるいはなんとも感じない人間の所業である。

ひとは他人から好かれるように行動する。そうしないと生きていくのに不便だからだ。わたしと田中君は仲良し。わたしと鈴木くんも仲良し。でも田中君と鈴木くんは仲が悪い。板挟みの状態だ。さてどっちと仲良くすべきか。

一方と仲良くすれば、もう一方からは嫌われる。嫌われることを恐れるあまり、どちらともほどほどに付き合うようになる。

しかしだんだん疲れてくる。あっちにいけばこっちの悪口。

「なんでお前はあいつなんかと仲良くしてるんだ」なんて言われる始末。

「そら、やつにだっていいところはあるし、今度一緒に遊んでみないか?」

こんなふうに切り替えせるなら、それはそれはすばらしい人格者であることがわかる。

小学生ならうまくやれるのかもしれない。

これが大人になるととたんに厳しくなる。田中君が田中商事。鈴木くんがスズキ財閥と名前を変えるだけでとんでもない難易度に跳ね上がる。

両者の関係をうまく保ちながら、互いの印象を悪くせず、なんらな協力させようものなら、その努力と労力は計り知れないものだろう。

わたしには無理だ。

どうせなら誰とも仲良くない佐藤くんと新たな親交深めるほうがよっぽど楽である。

オトナの世界には利益なんてものが鎮座しているせいで、新しい親交開拓も一筋縄ではいかないことも覚えておかなくてはならない。

 

話がそれてしまったが、表題に戻ろうと思う。

自分がすべきこと、それはいますぐパソコンを閉じて、まともな仕事に就いて、日々の生活費をコツコツと稼ぐことだ。

そうしないと生きているだけで浪費されていく資金を埋めることなどできないからだ。

やるべきことははっきりしているが、それをすることに対してモチベーションが上がらない。単純に堕落しているのではなく。ある種の疾病を抱えていることに要因がある。

それをうまく乗り越えて、なんとか仕事をしていたが、とうとうだめになった。

戻れる気はしていない。

戻るつもりもない。

戻ったところで、自分が失った何かを取り戻せるわけでもないし、よりよい未来が待っているとも考えにくい。

かっこつけているが、わたしは逃げ出した。いやなことから逃げ出して、くだらない文章を思いのまま書き連ねている。こんな行動がまともな人間の取る行動だとは思えない。自分を自分が否定している。バカにしている。自分自身を信じていない。信じられるものか、こいつは幾度となく他人を裏切ってきたのだ。

それもおおよそ行ってはいけない方法で何度も。

原因は自分以外にあることも確かではあるが、乗り越えることのできなかった自分に多大なる責任と、重大な欠陥がある。

だめな部分を認めて、できることから再出発したいと考えている。

これはひとりよがりだ。

自分勝手で身勝手な行動だ。

きっとわたしのケータイには数件のメールが飛んできているだろう。それをいまは無視してこんなものを書いているのだから。罪深い。

いまやっていることが正しいことなのかわからない。きっと間違った行動だろう。けれども、それが自分のしたいことなのだからやめるわけにいかない。

これも板挟みの状態だ。

後悔はしている。

このブログを始めたこと。

書くことを始めなかったこと。

書くことをやめてしまったこと。

続けられなくなったこと。

考えれば考えるだけ後悔もでてくる。

うまく書けなくなったからやらなくなったのではない。もともと書ける自信がなかった。書くことが好きでいるために、嫌いになるのが怖かった。

わたしは一度好きだったものを否定されて、それを失ってしまったことがある。失くしてしまったのは自分の意志だったけれで、向き合うこともつらくて、なかったことにした。心の中で封印して、興味を示さないようにした。そしたら気持ちが軽くなった。

別にそれに固執する必要はないしまた違った好きなものを見つけたらいいと思った。

でも、それは正しい選択ではなかった。

あとになって正しくなかったとわかった答えなので、予期することはできなかっただろう。捨てることにした当時の自分を恨むことはない。恨むべきはわたしの「好き」という気持ちを踏みにじった連中だ。けれども、恨んだってしかたない。悪気があって否定したわけではないから。

だからこそ、悪として成敗することもできなければ、最初の自然体な気持ちをいまさら取り戻す事もできない。心の中に生まれてしまったわだかまりが、常にわたしの考えを蝕んでしまう。

そしてたった一度の失敗でありながら、その恐怖はトラウマとなり、永遠と心の奥底に潜んでいる。

二度と同じ失敗を繰り返すものかと構えてしまうと、思考は柔軟に働かなくなり、受け入れることを拒むようになる。

好きになれば、嫌いになる可能性をはらんでしまう。好きでい続けることができないかもしれない。本来考える必要もなければ、恐れることもないはずの余計な考えが、わたしの中には生まれてしまうのである。