手に付かない言葉たち

頭に浮かぶ実態のない言葉たちは、文字に表すことで視認することができるようになる。けれどもう浮かんでくる映像を他人に伝えるときは、そのままに書く記せばよいという訳にはいかない。目に映る映像を一枚の絵としてとらえて、左うえから順に一コマずつ状況をかいせつするように、言葉にしてそのままに並べることができるならそれでも構わないだろうが、あらゆるものが飛び交う映像を想像したとき、空中に浮かぶものをひとつずつ説明するなんて退屈なだけだ。より効果的に現象をあらわして、かわりゆくイメージのあらしを伝えねばならない。それが難しいならばそれほどスピード感にあふれる映像を無理に説明することはない。もしくは、言葉でこそ表現しうるその速さをそのまま文字として置き換えることもできる。しかしいまのわたしに的確かつ上手な表現などできるはずもない。なぜならば経験値が低いからだ。だいたい、何をうかべても文字に表す前に消えてしまう。あたまが混乱してきた。打ち込んでいる言葉の数々も脈絡のないものになっていないか不安だ。そしてこの変換、作業を定期的に遮ってくれる。アイデアは鮮度なんだ。生きている。そして死にゆくのも早い。イメージが浮かび、すぐに文字にできなければ、それは次に浮かんだイメージを表現できずに消えてしまう。いま頭に浮かんでいるのは映画のこと。スクリーンに映る映画。そしてメディア化され、販売されている作品たち。トランスフォーマーシリーズ。もう一度細かい部分まで見てみたい。スクリーンの背景に当たる部分のほとんどがいまやCG化されており、どこからが本物で、どこからが映像なのかがわからない。だからその細部をみてみたい。どれほどよく見つめても、そんな作業は映画制作スタッフが上映前に100回も200回も行っていることだ。たった一度しかみない観客のために何度も試写をする。飽きるほどに。それで完成した作品が世間に見せびらかされ、くずだ、ゴミだと叩かれる。評価する側は自由でいいことだ。こんなことを書きに来たんじゃない。物語の骨組みがだいたい出来上がってきたところで、またいま困った状況に鳴っている

この変換本当に鬱陶しい「なっている」が「鳴っている」に勝手に変わる。許せない。

困った状況に陥っている。と書くべきだった。会話が思いつかない。人とコミュニケーションをとらずに過ごす時間がながかったせいか、もしくは意識してひとと会話したことがなかったからか。生きている言葉が出てこない。

頭の中で聞いたことのあるキャラクターの声で脳内再生される会話はたくさんあるが、そのすべてを文字にして記録することが困難な状況だ。

自分の声を録音して、あとから聞きながら文字として起こすことも考えたが、それではうまくいく気がしなくてまだ試していない。

やってもいないのにとは思う。試して見る勝ちはある。けれど問題は、データの管理と、文字を起こす作業のことだ。きっとすごく疲れる。思っている以上にだ。次に、どうせ聞いた音声よりも違うものを求めるようになる。それはとてもいいことだけど、手直しに手直しを加えて収集のつかなくなることをできれば避けたい。

言葉を書くのは一言ずつだが、出てくる言葉は常に1つとは限らない。突然溢れ出すように10も20も出てくることもあれば、枯井戸のようにすっからかんになってしまうこともある。いまはふたつのことが僕の考えを邪魔している。1つ目は今朝公開されたばかりの映画「シュガー・ラッシュオンライン」に出てきた可愛い可愛いディズニープリンセスたち。あんなに愛くるしい生き物が実在してしまったら。世の中大パニックだろう。みんな美人すぎる。僕のお気に入りは人魚姫のアリエル。彼女は泡になって消えたりしない。足もきれいだし。もらいものの足だけど。エージェント・オブ・シールドに登場するデスロックみたいだね。

そしてもう一つは枯井戸と打ったときにでてきた「カレイド

カレイドスコープといえば万華鏡のことである。べつに万華鏡には興味がわかないけど、カレイドスコープという楽曲については興味が湧いてしまった。音楽だ。僕のお気に入りの女性歌手、みのりんによるアップテンポな楽曲だ。無性に聞きたくなってしまう。彼女は「毎日が自由自在」と歌い上げる。ほんとうにそうだといいんだけれど。

自由自在には操れないことのほうが多いよ。

「せめてこの体くらい、自由に動かせたなら。もっと人生は楽しいのに」

五体満足な人間が言ったら、贅沢な話に聞こえるだろうな。

けれど、足をうしなったデスロックさんに言わせれば、もっと重い言葉になるだろうに。わたしの唯一気に入っているラッパーの呂布カルマ氏の言葉を借りるなら、こうして「言葉のウェイト」を考えているのはちょっと楽しい。

昨日、仕事終わりの母親を駅まで車で迎えに行ったときの帰り道、いまいましいラジオで流れていた曲にこんなのがあった。

RADWIMPS「パパラッチ」

内容は・・・一言では言えないし、わたしはRADWIMPSさんのファンでもアンチでもないから、下手な評価はしないようにしたい。自分を守るためさ。

この曲は本当によくできている。作った人は頭がいいんだと思う。ほめてもバカにしているようにみえるからこれ以上褒めない。

ラップ調で語りかけるように歌うこの曲はほんとにうまくできており。誰が聞いても「あーあ、すごいこと言ってるな」と思うだろう。聞けばわかる、悪者に対するの論破のあらし。自分は一切悪いことをしていないのに、全く無関係の僕ですら耳をふさぎたくなるような言葉ばかり、なにかやましいことでもあるのかねわたし。

あまりにうまく出来すぎていて気持ち悪かった。ひとを気持ち悪くさせるくらいにはうますぎて、わたしはあまり好きでなかった。評価は高い。高く評価するからこそ。わたしはこの曲が好きになれなかった。

いるだろう、美人とは認めるけどタイプじゃない。

そんなもんだ。

まず、音楽とは認めるが、わたしに言わせればこれはラップじゃない。わたしはラップのことなんてミリも詳しくないが、わたしの好きなラップはもっと、粗い。

荒っぽいのではない。きれいに美しく言葉がはまりすぎている作り物であるラップが好きになれないだけである。たんなる趣味嗜好の問題だ。本物のラップ好きはわたしのような偽物の言葉を気にすることなんてない。君たちのほうがよっぽどラップについては理解しているし正当な評価ができるだろう。わたしはたった一度しか聞いていないし、運転しながらだった、真剣にも聞いていなかった。

運転せずに真剣に聞いていたら、おそらく冒頭の10秒くらいでラジオを止めていただろうが。きれいにはまるように言葉をつなげた内容であるにもかかわらず、ここで呂布カルマさんの言葉をもう一度借りよう。言葉尻がだっせえ韻を踏んでばっかりなのも残念だった。楽曲として収めるからには完成していないと行けないとは思うが、ラップとはつねに完成しているようなものでもない。エミネムさんのラップは日本語でないので、ほんとうはなんて言っているかわからないから音楽として好きだ。しかし、RADWIMPSさんのパパラッチは、あれは歌じゃないし、ラップでもない。ファンの皆さんごめんなさい。

何度も言うが、人気者である彼らへのたんなる妬みでしかないこのアンチもどきの言葉なんて気にすることはない。