文字を書くということ

たった今1万字を書き終わった。

これはなかなかの達成感のある作業だった。

自分にもやれることがあると思うと、それだけでもいい気持ちがする。

それにおかしなことに、とっても疲れたはずなのに、こうしてまた文字を書き込んでいる自分がいる。なんということだろう。

自分が一番驚いている。中毒性をもたせることがこのブログを続けるポイントではないかと思ったから、こうしてまた思いついたことを記録しているわけだ。

中毒で書き込むことは危険をはらんでいることもなんとなくわかるし、考えたままにつらつらと文章を上げることだけではいけないこともわかっているつもりである。今自分が気にしているのは、この文字を入力するごとに増えていく右下の文字数である。

ここまでで約300文字。

こういうことに気がついてしまうと気が散って集中することが難しくなるが、いまはもう余韻を感じながらぽちぽちと書き込んでいるだけの時間だけに、それすらも気にしなくていいと思う。

自由に書こう。自由な空間だ、これは自分にとっての自由な時間。自由を際限なく楽しむこと、それが今の自分には大事なのである。頭に浮かんだ文字を徹底して打ち込んでいく作業。単純作業で集中力が上がるだろうか。タイピングも多少はマシなるだろうか。

昔からなにかを極めることが苦手だった。少し前の記事でオランウータン型といって追求型と診断されたばかりではあるが、実はそういう性格じゃない真反対の自分もいたりするんだ。

たしかに追求することで上達していくことも多くあった。高校生のときに部活の大会に出場したときのこと。

自分専用の練習場が用意されてひたすら何時間も練習した。するとメキメキと腕を上げたわたしはついに大会の本番でそこそこの成果を上げた。具体的な内容は控えるが製品を仕上げる速さと正確さを競う大会であり、わたしは出場者の中でもっともはやく作業を終了させた。結局のところ、外側のよく見えるところにでっかい傷をつけてしまい、それが理由で順位は多少落とされてしまったわけだが、それでも完成品の精度もわるくなかったし、作業は本当に早かった。レベルは高かったと思っている。先生にも高く評価されていた。あの頃は、まだまともな自分が生きていた気がする。

いまと比べると、よく頑張っていた時期だったと思う。当時から自分は周りから高く評価されていたから、こうして自分を振り返ると、どうしてほんとうにこんなふうになってしまったのか、疑問が大量に湧いてくる。やる気の問題なのか。それだけではない気もするが、考えてもしょうがないと、自分と向き合うのをひたすらに逃げてきた。

認めよう。わたしは逃げました。生きることも、働くことからも。やりたくなくなったのだ。自分がしたいことはそんなことじゃない。自分がやっていてたのしいことは決して金属部品を磨くことじゃない。自分自身を磨くことである。

なにをもって自分を磨こうか、どんなことでもいいと思う。これでいいじゃないか、書くこと。思うことを書く続けること。幸い、考えることも書くこともそれほど苦痛じゃないし、タイピングが早くなれば、思考回路にもついていけるかもしれない。もともとタイピングも遅いほうじゃない。苦手な部分はなれと訓練でカバーする。明日になれば多少はマシなる気もする。大変便利なタブ機能も見つけてしまった。

効率を上げて、書きたいことをかけるようになろう。