できうる限りの自己分析2

自分がなにをしたい生き物なのかを知ることは、この先を生きていく上で、人生の目標になる可能性が高いので、重要なことであることがわかる。

では自分がしたいこととはなんなのか。

考えても考えても、浮かんでくるのは次のようなことばかりである。

・働かずにお金を稼ぎたい

・美味しいものを食べたい

・安眠したい

・どうせ生きるなら幸せでいたい

・やりがいを見つけたい

・生涯の伴侶となる人物と多くの時間を過ごしたい

・たのしいことをたい 

こんなところである。

順番に考えていこうと思う。

 

・働かずにお金を稼ぎたい

誤解を招きそうだから最初に言っておくが、別に働きたくないのではない。

意味としては、「自分のしたくないこと、おもしろくないことをしたくない」という意味である。

生きていくためにはお金は必要だし、働くことも健全な人間のあるべき姿として必要であることは理解している。しかしながら、やりたくもないことを無理して続ける必要などないという考え方もできるはずである。

きっと誰もが常日頃から感じていることではないだろうか。仕事をしている半数以上の人たちは、生活のためにいやいや仕事をしているのではないだろうか。少なくともわたしは、仕事が大好きで、毎日職場に通うのが楽しくてしょうがないなんて人を見たことがない。きっとわたしが今までに狭い世間しか見てこなかったからだろうが、想像するに、大抵はお金のために働いているのではないだろうか。

無理して働いて、体を壊せばせっかく必死で稼いだお金がお薬代にかわっていくなんて考えたくもないだろう。そんなのわたしは嫌である。

なんの実績も残していないわたしがいうだけでは、現状ではただのわがままでしかないわけで非常に悔しい。

 ・美味しいものを食べたい

内容は大変シンプルで、文字通り美味しいものを食べたいのである。

しかしシンプルながらも、これを達成するのは大変なことなのではないだろうかと考える。まず出来上がったもので、美味しものというのは値段が高い。材料が高級、希少。料理であれば、調理にやたら時間と手間がかかっている。つまり金がいる。お金、お金と続いてしまい、こいつは金のことしか考えてないのかと言われてしまいそうだが、そうと決めつけずに聞いてほしい。極端な話、お金がすべての悩みを解決してくれると言っても過言ではない。お金がそういった可能性を秘めていることは間違いないが、わたしはいままでに大金を使ったこともなければ、手にしたことすらないので、信憑性は低いだろう。あくまで想像の話だ。

はたまた、金さえあればなんでもできるなんてのは、貧乏人の空想に過ぎないのではないかとも予想している。金持ちは金持ちなりに苦労するはずだ。

美味しいものの話をしよう。

その前に前提として、わたしは食欲が薄い方である。

食欲がまったくないわけではない。生きていればお腹は鳴るし、空腹感も訪れる。けれども「何が食べたい」という思考の変換がうまくいかないのである。自分はなにかの病気ではないかと疑った。拒食症だろうか。でも食事が出てくれば普通に口に運べるし、咀嚼をして飲み込むこともできる。その後に気持ち悪くなって吐き出してしまうなんてこともない。そのあたりは正常であるが、問題点は食べるまでのあいだにある。

食欲がない。これは体の異常である。

健康な人がお腹が空けば何が食べたいと食欲が湧くものである。

ではいつからわたしは食欲がなかったのか、思い返せばいくつか心当たりがある。

幼少の頃にさかのぼることになる。まだわたしが小さい頃、親から「何が食べたい?」と聞かれることがあった。きっと誰もがあるだろう。

しかしわたしはその質問に一度としてまともに答えたことがなかった。返事をしなかったのではない。

「何を食べたいか」これを聞かれたとき、わたしは「赤い魚」と答えていた。

6歳ころの記憶のため正確には覚えていないが、おそらくみりん漬けのことである。

では本当にみりん漬けが食べたかったのか、答えはノーだ。

「食べたいもの=食欲が示す食べ物」ではなく「食べたいものと聞かれたときに答えるもの=赤い魚」だったのだ。

つまりそれしか知らなかった。そしてもっと重要なことは、そう答えると親が喜ぶような気がしたのだ。

「〇〇ちゃんは赤いお魚が好きだねぇ」そう言ってもらえるのが嬉しかった。別に赤い魚が本当に食べたかったわけじゃない。本当はハンバーグが食べたかったかもしれないが、ハンバーグは作るのが大変だってことも知っていた。親の手を煩わせたくなかった、自分のわがままで親を困らせるものかと子供心に感じていたのだ。

小学生になってからはそれが顕著になった。さすがに小学校低学年をすぎた時分に、赤い魚が食べたいとは言わなくなっていたが、それ以上に、食べたいものを答えることができなくなっていった。そうして親の質問はだんだんと「食べたくないものは?」に変わった。わたしはそのたびに食べたくないものを答えていた気もする。残念ながらこの作戦はかなり短い期間で終りを迎えた。食べたくないものなんてとくにないし、食べたくないなんて答えることは食事を用意してくださる人に対して失礼であると理解していたから、わたしはより一層返事ができなくなった。

さらにしばらくすると、ついに親はわたしに食べたいものを聞かなくなってしまった。えらいもので、おとなになってからは「そろそろなにが食べたい季節だな」と思うと、食卓にその料理が登場するようになった。以心伝心とかそういうんじゃなくて、たぶんどの家庭にもあるだろう、冬になったら鍋、みたいなことというのは。

わたしの体もその流れを掴んだだけに過ぎない。

ここでひとつ自慢したいことがある。たまにだが以心伝心が起こることもあるのだ。わたしが餃子が食べたくて、仕事帰りにみよしので餃子を買って帰ると、すでにキッチンには大阪王将の包みがおいてあった。母も餃子が食べたかったそうだ。そのときはふたりで笑ったもんだ。特に母が大笑いしていた。

おとなになってから、実家で食事をするときに、ごくたまに「なにが食べたい」とリクエストするようになった。ほんとに食べたい物があるときはできるだけ伝えるようにはしている。これは要するに、なにが食べたいと申し出ることで、料理をする人が献立を考える手間を省くという意味があるのだ。その仕組みに気がついたのは高校を卒業する頃だった。

美味しいものを食べたいというのは、そのまえに食欲を取り戻したいという意味合いを強くもっているように感じる。

ここ数年のあいだに、何かを食べたいと感じたのはどれくらいあっただろうか。生きるために摂食する。それが自分の食事に対する考え方になってしまっていた。だからこそ、美味しいものをわたしは食べたいのである。

・安眠したい

日本人の多くが抱える問題の一つに睡眠がある。

と聞いたことがある。

安眠したい。これは質の良い睡眠をしたいという意味である。

質の良い睡眠を取ることができれば、ストレスや疲れから開放されて、生きる気力もいわてくること間違いなしである。反対を言えば、どんなに良い生活ができていようが、毎日悪夢にうなされてしまえば、それだけですべてがおしまいにさえ感じてしまうだろう。

わたしはよく夢を見る。それもたいていは見たくもない夢。仕事の夢や、何者かに追われる夢。夢の中では苦しいことばかりが起こる。

夢の中の設定で、目の前にものすごい悪い人がいる。その人の顔をたくさん殴りつける。これでもかと殴りつける、しかしほとんど手応えがない。反撃こそされないものの、致命傷を与えなければいけない、という設定なのにそれを達することができない苦しみ。

続いて場面が変わり、今度はなぜか呼吸ができなくなる。夢のなかでは「これは寝ている自分ののどに舌が降りてきたんだろう」と冷静に理解しているのに、まるで目覚めようとせず、必死で息をすおうとするが、うまくいかない。そんなことが繰り返し繰り返しおこる。ひどいときは本当に歯が折れてしまうのではないかと思うくらい前歯に力が加わることがある。折れそうで別の意味で怖い。

そして強烈な夢を見たその朝目覚めると頭痛がする。軽いものですぐにおさまるが、これが毎朝起こると結構参ってしまう。想像してほしい、毎日悪夢ともよべる夢を見続けて、目覚めるたびに脳と体が疲弊している。これではなんのために睡眠をとっているかわからない。眠らないほうがかえって疲れないかもしれないと、何度も思った。徹夜などできたためしがないが。

人は眠ることでその日の疲れを癒やし、できごとを脳内で整理する。場合によってはそれを記憶し、身につける準備期間とすることもある。昨日できなかったことが、翌日になって突然できるようになることがあるのは、そういった脳の処理によるものである。

そしてその処理が行われている最中にレム睡眠に入ってしまうと、人は夢を見るわけだ。レム睡眠とは体が眠っているが脳が覚醒している時の状態。一般的に眠りの浅い状態であり。朝方にむけて眠りは冷めていく、そして目が覚める直前まで夢を見ていることもある。それが短期的な記憶に残り、起きてからそれを書き留めたり、意識的に記憶するようにすれば、夢を覚えていられる。

わたしの最近の夢でいえば、透明なゲル状の生物らしき物体の表面に、赤色のまると青色のバツが規則的に並んでおり、それら3体が学校の廊下をぬめぬめとならんで進んでいく様子が印象的だった。

また、1Fから9Fまである折返し階段を最下段付近まで降りたところで、紫色の地面が見え、何らかの危険を察知した自分と、誰かはわからないがもうひとりがいて、引き返そうと振り返ると、その瞬間に上り側の階段も下りになってしまう。なんとか上階へ登り、迫りくる紫色のなにかから逃れるべく、6Fまで駆け上るとそこに扉がある。次にその扉を開くイメージが湧いてくる。開けるとそこは、いわゆるはずれの扉であり。本当は7Fの扉をあける必要があるとわかる。なぜわかるのはか不明。夢だから。

また階段を上がる。次の扉が見えればそれが7Fの扉だから、本来はそれを開ければよいはずなのに、なぜか自分たちは7Fでは扉を開けずに最上階の9Fまで登ることになる。理由は不明。夢だから。

9Fまで上がりきって扉を抜けると、紫色の驚異からは逃れることはできる。しかし今度は9Fにはまた別の化物が存在する。という設定なのである。

こんな調子の夢を繰り返しみることが、目覚めたときどれだけの疲労感をあたえてくるか、わかっていただけると嬉しい。文字にして読んで見れば「なんだそれ」程度の内容かもしれない。良くてなんか面白いと感じていただける内容かもしれない。けれども夢の中では真剣そのものであり、階段を駆け上がっている自分は息も絶え絶え、息苦しくはならないが、心拍は上がっている感じはする。紫色の何かはよくわからないものに、触れられたら本当に死んでしまうかもしれない、学校の廊下をぬめぬめとゆっくり進んでいくゲル状の物体も、遠くから見ているからこちらに害はないが、安易に近寄れば襲ってくるかもしれない。そう思って恐怖と戦っているのである。ちなみにその物体は80センチくらいの大きさである。

ちょっと前に見た夢ではゾンビに噛まれて絶命したところまで覚えている。夢だから「あなたは死にました」とは出ないものの「自分は死んだのだ」と冷静に感じてしまうのだ。起きてしまえばありえないこととわかるけれど、見ている間は本当に恐ろしいものである。さすがにそのときは自分でコントロールして夢から覚めることができた。

安眠とは、こういったものから開放されて、目覚めたときに疲労していないことである。

わたし自身夢を見ること自体は好きだ。上記の通り、内容は荒唐無稽で支離滅裂、恐怖体験でしかない場合もあるが、話のネタにはなる。ごく小さい話のネタではあるが。

これを作品として取り上げて、フィクションとして昇華できれば、それはある意味儲けもんだ。そんなこともしてみたいと思う。だから夢を見るのは大歓迎だ。できることならほんとうにわけのわからない内容がいい。仕事がうまくいかないものとか、夢の中でもやりたくないことをやらされているとかは勘弁願いたい。

あとは睡眠時間も重要だ。わたしは平均して7~8時間眠ることが多い。数字で言えば理想的な睡眠時間と言えるらしいが、その実態は悪夢と起床後の倦怠感である。睡眠の質に問題があるとしか思えない。また7時間ほど眠るのは、そうしないとまともに働けないからだ。それだけ眠っても仕事の休憩時間は眠っていることが多いから、長い時間眠っていながら、実は眠れていないということになる。質の良い睡眠を取ることができれば、睡眠時間を短くできる。そうすると活動時間が増やせる。睡眠の質を上げることは人生を豊かにすることにおいて無視できないことであると考えている。

・どうせ生きるなら幸せでいたい

わたしはどちらかというと死にたいと思っている人間だ。

理由としては、生きる意味がないから。生きがいがないから。といったことろである。

けれども死ぬことは罪深いし苦しいらしい。だから死ねない。生きねばならない。

義務的に生きているようなものか。毎日が楽しくて、明日もやることがいっぱいな幸せなひとになれるなら、それがきっといいのだろうが、いまはそんな気にもならない。少なくとも死なずに生きていくこと。寿命か不慮の事故で亡くなることが最終地点である。自らの手で命を絶ったり、殺されるのはごめんだ。それはなしにしてほしい。

では、生きていくしか選択肢がないならば、生きる期間を数えてみよう。80歳まで生きるとしても、いまが20代。あと60年はある。

60年。きっと長いんだろう。わたしが生まれてからも医療が進歩して発展してきた。60年も経てばもっともっと人間の平均寿命は伸びるはずだ。嫌でも生きる時間は増えるわけだ。ならば楽しく生きなければ損だろう。

幸せをどれだけ手に入れられるかが、その人の人生を豊かにする。最初にも言ったとおり。わたしはどちらかというと死にたい人間だ。人生を豊かにすることに興味なんて元々ないが、どうせ死ねないのだから、せめて苦しみの少ない方向で生きていたいとおもうのである。

けれども、楽しいことなんてなかなか見つかるもんじゃない。

楽しいことが起こると、嫌なことも起こる。嫌なことがあっても、楽しいことがあれば乗り越えられる。こういう原理がもうすでに好きじゃない。

嫌なことが起こるならそのまえのたのしいことはいらないし、嫌なことがあって、もしそれを乗り越えるだけの楽しいことが見つからなかったら、生きているだけ損をしてしまう。損得勘定で捉えてはいけない事かもしれない。では、生きる意味とはなんなのか。

幸せになること以外にありえないとわたしは思う。

幸せになることが生きている意味を感じさせてくれるたった一つの方法だとわたしは思う。

人間誰しも、不幸になるためには生まれてこない。愛されるために生まれるべきだ。愛されないとわかっていながら生まれてしまったら、その人は生まれながらにして不幸である。不幸が良くないなら、その反対の幸福が良いことになるはず。あえて論ずるまでもない。人は愛されて幸せになるために生まれるべきなのである。そしていま自分が幸せでないとしたら、愛されていないとしたら、それは考えなければならない。

なんの間違いかはわからないが、この世に生をうけてしまったのならば、死んではならない。生きていくならば、せめて不幸にはなりたくない。どうせ生きるなら幸せでいたい。

どうすれば幸せか、最初に書いたことを達成したら。そこそこ幸せになれるんじゃないのだろうか。だからこうしてそのための一歩を着々と刻みつけているのである。

・やりがいを見つけたい

これは先に書いたことと重なる部分が大きい。

生きるには目的が必要。何も考えず生きている人間なんていない。

なんにも考えていなさそうな人でも、きっと好きなことがあり、気に入った人がいて、好みの食べ物があり、気持ちの踊る音楽がある。神様から授かった喜びを感じる器官が備わっているんだから、それを使いたいと思っていても不思議はない。

何も考えずに生きている人はいない。

くしくも人間は男女の性別があり、お互いを惹きつけ合うなにかをもっている。男性は美しい女性に惹かれ、女性は自分を一生愛してくれる男性を求める。本能の部分の話になりそうだし、これ以上は吐気がするのであまり書かないことにする。人間の生物的な部分を意識してしまうせいで、わたしは人の色恋があまり好きじゃない。この考え方を植え付けてくださった何者かをわたしはそれなりに恨んでいる。本だったか、ゲームだったか、はたまた人から直接聞いた話だったかは覚えていない。とにかく嫌いなのだ。勘違いしてほしくはないから、あえて記載するが、恋愛が嫌いなのではなく、それをつきうごかす心理の根幹の部分が好きじゃない。生物としての本能の部分だ。そういう原始的な意識によってひとが恋愛をさせられているのかと考えると、まったく怒りを覚える。神様もほんとによけいな機能を授けてくださったものだ。数を増やすだけなら別に男女の分離は必要なかっただろうに。

話を戻そう。何も考えていなさそうな人間でも。きっと好きな人の一人や二人はいるだろう。そしてその人と仲良くしたいと思う。男ならテレビに出ている可愛らしいアイドルの子たちに魅力を感じてしかたがないだろう。可愛い子たちを愛したいし愛されたい。そう感じているに違いない。内容が重複してしまって申し訳ない。

他にはたとえば、あれがやりたいこれをしてみたい。そんな小さな望みがたくさんあるはずだ。例えばニンテンドースイッチがほしいとか。そろそろクリスマスですね。サンタさん、わたしにニンテンドースイッチをください。いい子にしてなかったから無理な気がする。

なぜわたしはスイッチを欲しがったのか、残念ながら自分がゲームをしたいからではない。一緒にゲームをして遊びたいからだ。誰と→好きな人と。

こういうことである。ではそのスイッチを手に入れるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぐには働かなくてはならなくて、働くなら自分のやりたいことをしたい。自分にとって面白くないことは、仕事として続かないのである。

仕事をしていて集中することができるならば、時間が経てば業務が終了する。もしくは、自分に与えられた業務を完了すれば、代償をいただける。そうやって働いていくことが大事である。なによりも続くこと、無理なく続けられること。そうでなくては仕事の意味がない。

仕事が生きがいであればそれこそ素晴らしいことである。

毎日続けても苦しくないだろうし、それをすることが自分のため、まして人のためになるのであれば、そんなに素晴らしいことはないだろう。だからこそ、ひとは自分のみならず人のためになる仕事をするようになる。人様に感謝されたい。そう願うから、お仕事を無理なく続けられるのである。

仕事をする、無理なく続ける、お金を稼ぐ、人の役に立つ、自分のためになるこういった調和が保てることが理想形である。

自分になにかできることはないか、ひとはそうやって生きることが幸福を感じる近道であることを知っている。反対に、他人に邪魔され、否定され、蔑まれることが不幸であることも知っている。そうならないように人は生きるしかない。

◯休憩

だんだん腕が疲れてきた。少しづつ休憩をはさみながら書いてはいるが

けれどあと少し、もう少し頑張ればゴールが見えてくる。達成するまでは書き続ける。今日の目標はあと少し。

表題からまたそれてしまって申し訳ない。

わたしが冒頭にあげたいくつかの項目はようするに、お互いが密接に関わっているのである。大きな望みでまとめてしまうなら、それはつまり「生きたい」になるのではないだろうか。拡大解釈すぎて自分自身鼻で笑うしかないのが事実であり、あまり認めたくないこともまた事実だ。

途中でどちらかといえば死にたいと思っているなんて書いておきながら、そのもとの意味を読み解けば生きたいという回答になるなんて、バカげているとしか思えない、わたしは矛盾だらけだ。矛盾の中で生きている。

だからこうして自分を理解するために書き込んでいるのだ。まだまだ自己分析は終わっていないからどうぞ続けて。

やりがいについてだが、達成感や充実感は何かを成し遂げる上でのおおきな原動力となる。一度味わった充実感がもう一度ほしくて何度も何度もと同じ行動を取り続けるのは、人としてごく一般的な思考回路である。子供がアイスを欲しがるのと一緒。

達成感はまた一味違っており、困難な問題に直面し、自分たちの力で乗り越えることで快感を覚える。パズルが解けるとスッキリする。反対を言えば、解けない問題は気持ち悪いのだ。できることを繰り返し行う充実感と、できなかったことをクリアする達成感を味わうことで自分に満足感を与えることができる。人は満たされると気持ち良いのだ。わたしもパズルが好きだ。特に知恵の輪が好きだ。自分の力で外せたときはそれはもう飛び上がるほど嬉しくなる。実際は飛び上がることもないし、ぐりぐりしていたら外れてしまったという場合がほとんどである。つまり驚きのほうが大きい。

そしてもとに戻せなくなり、諦める。これは達成感を味わっていないからやめてしまうのだ。自分で外したという確信と、自在に操る方法を理解することではじめて、もう一度試してみようと思い立つのである。これがやりがい。

やりがいについて多くを書き込んでみたが、なかなかうまく説明ができない。

これ、おもしろいな。とちょっとでも思えるなら、それが全てである。

面白い、もう一回してみたい。これをすれば達成感を味わえる。

わたしにとっての充実感は他人からの評価である。特に自分が作ったものへの評価。もちろんいい評価だ。

あなたの作るものは素晴らしい。そう言ってもらえれば、次への原動力になる。わざわざ下手な例を挙げるまでもなく、人からいいねと言われることがやりがいなのではないだろうか。

まとめれば、自分が書いたものが人から評価されて、売れて、金になれば最高だということ。

・生涯の伴侶となる人と多くの時間を過ごしたい

自分のしたいことのほとんどの部分がこの項目に収束している。わたしが生きる意味は何かと尋ねられたなら、その回答はたった一つ「愛する人を幸せにすること」これに尽きる。それ以外に生きる意味なんてない。自分のために生きなければならないのならば「自分が幸せになる」で十分だが、自分の幸せを考えたときに、どうしてももうひとりの助けが必要であることがわかってしまったのだから、もうどうすることもない。あとはただひたすらにその人の幸せを考えて行動するだけである。

表題とは話がずれたので修正する。一緒にいられる時間は限られており、その人とともに過ごす時間が大切な思い出になるのならば、できるだけ一緒にいたいと思った。それだけなのである。一緒にいればお互いすれ違うこともあるだろうが、一緒にいなければ触れ合うことすらできず、幸せにしてやれる可能性は目減りしてしまう。必ずしも近くにいないといけないわけではないが、この問題はわたしの幸せの部分にも大きく関わってくるから、結局のところ、二人は一緒にいるほうがなんとでもしやすいのだ。困ったときに助け合う。悲しいときにそばにいる。そのためだけに生きていくというのも悪くはないだろう。このことは多くは語るまい。

・たのしいことをしたい

たいへんざっくりしたテーマである。

楽しいこととはなんだろうか、楽しくないことじゃないことである。

楽しくないこととは、笑えないことである。

わたしは普段からあまり笑わない人間である。笑えないとも言えるだろうか。おかしなことがあると吹き出してしまうことがあるだろう。楽しければ笑顔になる。それが普通だ。

わたしは面白いとおもうことはあっても、それを笑いとして表に出すことが非常に少ない。別に笑いたくないのではない。腹の底から笑ったりできなくなってしまっているのだ。笑うことはあっても、息ができなくなるほどにはならない。ツボにはまることもなくなってしまった気がする。最近ほんとに笑っていなくて自分が心配になる。

思えば幼少の頃はしょっちゅう笑っていた。なにがそんなに楽しかったのか。なにがそんなに笑えたのか。くだらないことで大笑いしていた。そんな自分が薄ら寒く感じるようになってしまったのだ。笑っている自分を冷めた目で見下ろすもうひとりの自分。冷静になってから、恥ずかしくなる自分。そんな自分のせいで、わたしはだんだんと笑わなくなった。笑えなくなった。

面白いと感じることはたくさんある。しかしそのおもしろいという感情は感心へと流れてしまう、そんな面白いことをよく思いつくな、と思うようになる。

いつ頃からこんなふうになってしまったのか。小学生の時はよく笑っていた。中学生もよく笑っていた。高校生くらいまでは多分笑っていた。そのあとから笑えることが少なくなって、おかしくなって、どうしてこうなったのか。

自分は笑ってはいけないとさえ思っている部分もある。年の瀬のダウンタウンさんの人気番組を一人で延々と行っているようなものである。悪いことにわたしの番組には笑わせに来る人が一人もいないのだ。本当に笑えない。

楽しくないこと。ほかには例えば、自分を否定されたりすること。

注意を受けたり、処分されたりする。

何も楽しくない。全然笑えない。

そんなことは間違っても起こってほしくない。ただでさえ笑うことの少なくなったわたしに、これ以上の仕打ちは勘弁してほしいものだ。

楽しいことといえば、一般的に言えば趣味だろうか、楽しくないことを趣味にする強者はなかなかいないだろう。楽しめるからこその趣味であって、それは人生を豊かにする一つの大きな要素である。

では自分の趣味はなにか。

これが特にないわけだ。これが非常に大きな問題点ではないだろうか。

楽しいことをする、これに対する回答は趣味を見つける。ということになりそうだ。

まあ、わたしの趣味はコーヒーなのだけれども。

これに関しては楽しいというよりも、中毒的な部分があるので、声を上げて趣味とは言えないのだ。たばこを吸うのが趣味の人がいないように、コーヒーを飲むのは趣味になりそうにない。わたしは自分でコーヒーを淹れているから、ギリギリ趣味と呼べるのかもしれない。

あとは文章を書いたり、お風呂に入りながら思考を巡らせること。空想に浸りながら、自分の面白いと思った物語の展開を繰り広げること。それをまた文章にして、作品にして、評価されて、売れて、金になれば儲けもんだ。そういうふうに考えている。

将来の夢は作家になること。そんなふうに思ったこともある。今からでも遅くないとも思っている。時間は掛かりそうだけれど、なんとか続けることができれば、なんとかなるかもしれない。

さて、ここまで書いてきた。大変な作業だった。

自分のやりたいことをいくつか並べただけでもこれだけの分量になる。

この十倍書くことができれば、それがだいたい小説1冊分の分量になるらしい。

10日続けたら見事作家デビューというわけである。そんなことはまずありえないけれど。

しかしなによりもまずは自分の中から生まれた言葉を文として、言葉として記録することが、書くものとしての基本的な動作になるわけだから、今行っているこの行為は決して無駄にはならない。文字を書くこと、文にすること。タイピングの練習をすること。集中して作業に取り組むこと。これらが当面の目的である。

途中で休憩をはさみ「もうすぐ終わりだと」書いたが、目標としていたのは1万字を書く込むことだった。文としてどれくらいの長さになるのか、作業時間はどれくらいかかるのか、自分はどこまでできるのか、知る必要がある。できることをできる限りやらなければ、自分は生きていけない。この行動こそ、これからの自分の支えていく大きな柱になるかもしれないのだから、決して諦めてはならない。飽きてもいけない。わたしの欠点の一つに、飽きっぽいということがある。これをなんとかしなければいけない。

自分がやりたかったことは、まずこれが第一であり。今はこれくらいしかできることはない。できることから始めていこうと思った。だからこそこのブログを始めたのだ。